|
|||
| 日露戦と観艦式 | |||
| ここでは、日露戦争時の絵葉書と海軍の観艦式の絵葉書をご案内します。5月27日は「日本海海戦の日」であり、戦前の「海軍記念日」(戦前の海軍記念日)でもある。1905年(明治38年)のこの日、日露戦争で、日本海で東郷平八郎が率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に大勝利を収めた。
明治の末期頃になるとこの対露戦のために、海軍の演習が盛んに行われた。この当時の演習は殆どが神戸沖で行われている。開港後の神戸が華やかなりし頃でもある。 |
|||
| T、日露海戦絵葉書(@〜B)3枚。 | |||
| 絵葉書への添書き。 @二月六日聯合艦隊佐世保出発A艦橋に於ける東郷司令官。B右写真:聯合艦隊第3回閉塞隊ノ分離。左写真:満州丸来ル。 |
|||
| 補足:@日清戦争後ロシアは清国との間の、満州還付条約に調印したが、ロシアは満州撤兵を不履行。1903年(明治36年)10月6日、日露交渉(戦争を避けるための最後の話し合い)は、話し合いがつかず、1904年2月4日、ロシア艦隊が外泊地にいることが明白となり軍司令部では、これを好機とし、御前会議で、対露開戦を決定。東郷海軍中将にロシア艦隊攻撃命令をだす。2月6日、駐露公使よりロシアに国交断絶を通告、聯合艦隊は佐世保港より出発し、2月8日旅順口のロシア艦隊を夜襲攻撃する。Aは、その時、艦橋で指令を出している東郷司令官であろう。当時の日本海軍は、ロシアの半分位の勢力しかなく、奇襲および分散兵力の各個撃破などにより対抗するしかなかった。1904年2月10日対露宣戦布告(日露戦争勃発) B開戦初頭の旅順奇襲でロシア艦隊が港内に移動したので、この機会にそのまま閉じ込めて、海上輸送の安全を図ろうと旅順口閉塞作戦が実行されることになった。 旅順口閉塞作戦は、1904年(明治37)年2月24日未明第1回が決行され、3月27日夜に第2回、5月2日夜に第3回が行われた。前2回の作戦で完全閉塞に至らなかった為、第3回閉塞作戦は汽船12隻による大がかりな作戦となったが、荒天のため困難を極め、作戦中止が発令されたが、命令の伝達が徹底を欠き、8隻の閉塞船が突入したそうだ。そして、多くの戦死・行方不明を出し、結局港口を完全に塞ぐことはできず、その後の陸軍による旅順攻略に期待することとなったと言う。B左写真の「満州丸」は、敦賀と朝鮮半島・清津を結ぶ日満航路の初代船「満州丸」(三、〇二八トン)であろう。 このときの作戦に使われた船であろう。 |
|||
| U、「水師営の会見」絵葉書C | |||
![]() |
|||
| 補足:水師営の会見 ロシア軍の降伏交渉も終わった1905年(明治38年)1月5日、水師営にある農家の一室で、両軍司令官の会見が行われた。「昨年まで部下を引堤げて砲火のもとに相敵視したる両雄は、一見十年の旧知も及ばざる親交の人なり熱心に握手して分かれた」と言う会見の場面は、小学校国語教科書にも載って長く語られた。中列の左からレイス参謀長、乃木司令官、ステッセル司令官、伊地知参謀長。 |
|||
| V、「明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画」絵葉書(絵の部分のみカット)、40枚中の5枚(D〜H) | |||
| 絵葉書への添書き。 D荒井陸男筆「日露役旅順開城」関東廰 奉納。明治三八年一月五日。関東州旅順口水師営。 E鹿子木孟郎筆「日露役奉天戦」南満州鉄道株式会社 奉納。明治三八年三月十五日。満州奉天城南大門。 |
|||
| 絵葉書への添書き。 F中村不折筆「日露役日本海海戦」日本郵船株式会社奉納。明治三八年五月二七日。聯合艦隊旗艦三笠。 G小林萬吾筆「凱旋観兵式」陸軍省奉納。明治三九年四月三十日。東京青山練兵場。 H東城鉦太郎筆「凱旋観艦式」海軍省奉納。明治三八年十月二三日。横浜港ニテ御召艦浅間。 |
|||
| 「明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画」絵葉書補足:聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された施設。館内には、天皇・皇后の御在世中の御事蹟を伝える80枚の大壁画(縦3m、横2.5 〜 2.7m)が、年代順に展示されており、これらの壁画は、当時一流の日本画家・洋画家の手によって、史実に基づいた慎重な考証の上で描かれており、貴重な歴史資料であるといえる。私の持っている絵葉書は、この中の半分40枚である。名前は忘れたが、「○○の巻」と題し、2つの巻に分かれて発行されており、その1つの巻である。絵葉書については特別に補足は必要ないであろう。Fの1905年(明治38年)5月27日未明、九州の西対馬海峡に現れたロシアのバルチック艦隊と、東郷平八郎率いる日本聯合艦隊との運命をかけた一戦「日本海海戦」での大勝利が、日露戦争の勝利を導く上での決定的な役割を果たしたと言われている。Gは日露戦に勝利した陸軍の「凱旋観兵式」Hは海軍の「凱旋観艦式」である。 | |||
| W、明治四十一年海軍大観艦式記念絵葉書8枚(I〜P) | |||
| I明治天皇御影と菊の紋章 J明治天皇御影と海軍大観艦式記念(明治41年11月17日神戸と錨のマークの刻印)K上写真の中央は、東郷平八郎左右は?。中央写真は、観艦式実況、下の写真は、御召艦浅間。 | |||
| L写真中央は、明治天皇御影、左は乃木希典右?と菊の紋の旗。M左上の写真は御召艦浅間、右下の写真は?(よく読めないが湊川神社ではないかと考えているが・・・)N葉書には「四十一年陸軍特別大演習記念」とあり、中央2つの写真は演習風景、左右人物は?。 | |||
| O写真は湊川神社。P写真右は議場玄関入り口、左は市会議場(神戸市) | |||
| 海軍大観艦式記念絵葉書補足:この絵葉書の「明治41年海軍大観艦式」は神戸沖で行われている。だから、絵葉書には、当時の神戸の市会議所や官幣社でもある湊川神社などが写真に撮られている。観艦式は、海上で天皇が展開する艦艇を親閲する海軍の公式行事で、陸軍でも同様の行事として観兵式がある。Nの絵葉書は、同年の陸軍特別大演習の模様であり、奈良で行われている。観艦式は、明治元年3月、明治天皇を迎えて大阪・天保山沖で実施された「観兵式」が観艦式の始まりであり、当時の兵力は6隻、2452トンに過ぎなかった。「観艦式」という言葉が最初に使われたのは、第4回目に当たる明治33年神戸沖で行われた大演習観艦式からである。明治時代には、明治41年までに8回(公式には6回)行われているが、中、神戸沖で4回も行われている。この明治41年の神戸沖での大観艦式にはこれまでの最高123隻の戦艦が参加、明治天皇は御召艦浅間で親閲されている。当時、世界の列強と競うためには、海軍力の整備が重要課題であり、その為にも、海軍にとっては、このような観艦式でのデモンストレーションが重要であっただろう。 | |||
| このホームページでは収集品の案内をしているだけであり、掲載のものについての転載、転用等は一切禁じます。 |