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第四師団司令部 1871(明治4)年、大阪城内に大阪鎮台が置かれた。1888(明治21)年には第四師団と改称され、その中の旧陸軍歩兵第八連隊は、その中核部隊であった。1931(昭和6)年、当時、大阪城内に分散していた師団の庁舎を集約するためとして建てられた。1940(昭和15)年には中部軍管区司令部庁舎となり、戦後は米軍、1953(昭和28)年大阪市に無償譲渡された後は大阪市警、大阪府警、に使用され1960(昭和35)年からは大阪市立博物館となり、2001(平成13)年3月まで使用されたが、今は、閉館となっている。建物は、幅95メートル高さ21メートルの当時としてはかなり大きな建物で、ほぼ同時期に再建された純和風の大阪城とのスタイルコントラストを意識した建物といわれている。 |
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@右上:大阪市庁 大阪市は18898明治22)年に府市一体の特別市として誕生した。1899(明治32)年に独立した市となり、1912(明治45)年に堂島浜に新庁舎が建設された。その後、1921(大正10)年に中之島の庁舎が完成している。当時、塔屋までの高さ約56m、市内最高の高さを誇った。設計を公募し、約10年の歳月をかけて完成した。(写真のもの)鉄筋5階建てで中央にホール、四方に玄関を設けるなどの工夫がされた。正面玄関には4本の円柱が立ち、ルネッサンス風の塔は市の象徴となり、親しまれた。大正期の貴重な建築物だったが、新庁舎建設のため惜しまれながら、1982(昭和57)年に取り壊された。 A左下:大阪府庁 初代の府庁舎は、旧西町奉行所に設置された。二代目は1874(明治7)年に西区江之子島に移転。三代目は1926(大正15)年に現在の大手町に移転した(写真のもの=現庁舎本館)。設計は懸賞募集され、平林金吾氏、岡本馨氏が当選し建設。関東大震災の直後であったことから、建設に当たっては、耐震・耐火が大変重視された。別館は、1964(昭和39)年完成。その後、新別館南館(平成7年完成)及び北館(平成9年完成)が建設されている。 |
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| 上左の絵葉書(昭和初期)「中ノ島に聳ゆる市庁舎の雄観」。 上右の絵葉書(昭和初期)「大手前に聳ゆる大阪府庁舎の偉観」。 同じ昭和初期でも、どちらも上左の@Aのものより少し新しく撮られたものと思われる。 |
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| 上左の絵葉書(昭和初期) @右上:上六大軌停車場 近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道は、1926(大正15)年、千日前通りにあった上本町駅を現在の場所に移転、当時の私鉄最大のターミナルビルを新築した。間口は約100m、塔屋までの高さは30mもあり、塔屋上のイルミネーションは、市内のどこからでもよく見えたそうである。1936(昭和11)年に実用品を中心にした百貨店に改装オープン、これが現在の近鉄百貨店上本町店である。 A左下:大阪高津宮 18世紀の半ば頃の平和な時代になると、お金をとって望遠鏡を見せる商売があった。1730年の長谷川光信が描く「絵本御伽品鏡」には大阪高津宮で風景を眺める絵が載せられている。今の日本橋と谷町9丁目の間にある場所で、展望の名所として全国にも知られていたそうである。 上右の絵葉書(昭和初期)「上本町の街角に聳ゆる大軌ビルデング」。左の@のものより少し新しく撮られたものだろう。 |
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@中央上:南御堂概観 A左下:大阪南御堂本願寺別院 南御堂本願寺別院(難波別院)は、1561(文禄4)年に教如上人が、今の北区の天満橋と天神橋の間あたりの大川のほとりに位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したのが始まり。1583(天正11)年豊臣秀吉は、石山本願寺の地を手に入れ大坂城を築城。城下町を拡大しながら整備にとりかかり、1598(慶長3)年渡辺の地にあった大谷本願寺を、現在の南御堂・難波別院の地に移させた。同時期、北御堂(西本願寺津村別院)が建立されている。1602(慶長7)年に、徳川家康が京都東六条の地を教如上人に寄進し、東本願寺が建立されるまで、難波別院はいわゆる「お東」の本山であった。その後、別院は難波御堂とも呼ばれ、1714(正徳4)年には、幕府から旧大坂城の外堀の石垣の寄進を受け、淀川から砂を運び地盛りをし、壮大な本堂が建立されている。難波別院の名はこの地を以前上難波村と呼んだことによる。 B北御堂津村別院 本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに1497(明応5)年、坊舎(後の石山本願寺)が建てられた。その後、織田信長との争いにより、本願寺は大坂を離れなければならなくなり、大坂の門徒は天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立した。その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院)とならび大坂の人々に「御堂さん」と呼び親しまれ、御堂筋の名称の由来にもなったという。両別院はこの御堂筋の南と北にあることから北御堂・南御堂と対比して呼ばれるようになった。 |
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@右下:大阪歌舞伎座 大阪歌舞伎座は、1932(昭和7)年9月28日千日前に竣工。当時観客3000人もの観客をを飲み込む歌舞伎の殿堂は、東京にも比すべききものがなく、繁盛していたが、人々の嗜好も変わり、維持するには余りにも大き過ぎた。大阪歌舞伎座は1958(昭和33)年3月26日の千秋楽を最後に、新歌舞伎座に権利をを譲り、デパートに変身した。しかし、同居しているキャバレーよりの出火によって多数の焼死者出し取り壊される。一方、新しくスタートした新歌舞伎座は、歌舞伎は程々で、歌手芝居に命を繋いでいる。 A左上:南海高島屋 高島屋は、江戸時代に京都烏丸で古着商を始め、大阪には心斎橋に1898(明治31)年に進出した。その後、堺筋の長堀橋(現中央区島之内1)に移転。 この絵葉書は、1922(大正11)年に建設・移転した堺筋長堀橋の7階建てビル。市電の幹線が走る堺筋は、大正なかばから昭和にかけて高島屋、松坂屋、三越、白木屋が並び"百貨店通り"と言われ、大阪のメインストリートになっていた。しかし1937(昭和12)年、御堂筋の拡幅工事が完了すると、次々に移転。昭和7年南海電車の難波ターミナルビルが完成したのを機会にそのビルに移転した。御堂筋北詰の阪急に対して、南詰の高島屋の威厳を示す壮大な建物は今も変わらない。 |
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| (参考)大阪歌舞伎座 :http://www.netlaputa.ne.jp/~kitamura/kabuki/o-kabukiza/o-kabukiza-index.html | |||
@左上:道頓堀安井道頓碑、 「とんぼり」の愛称で親しまれる道頓堀川は、東横堀川と木津川を結ぶ約2.7kmの一級河川である。全国の物産を、船を利用して直接町中まで運ぶため、豊臣秀吉から東横堀川から木津川に通じる運河づくりを命ぜられた道頓は従兄弟の安井道ト(どうぼく)らと開削工事を始めるが道頓は、大坂夏の陣で戦死。その意志を継いだ道トたちによって1615(慶長19)年に完成する。後に、大坂城主松平忠明が道頓の功績を讃え、「道頓堀」と名付けたといわれている。現在、日本橋の北詰東に、「安井道頓・道ト紀功碑」が立っている。 B右上:千日前竹林寺、 江戸初期の1649年(慶安2年)この地に建立された「浄業院」が開基。北隣にあった法善寺、[1637(寛永14)年上本町より現在地に移転]が始めていた千日回向を、竹林寺も1666年(寛文6年)より始めたので、市民が両寺を「千日寺」と称し、南の墓所に通じる道の両側は千日寺の前ということで「千日前」と呼ぶようになったという。戦前は竹林寺の境内は観音堂と大師堂があり、観音参りで賑わったが、1945(昭和20)年の空襲で、法善寺共々消失した。現在の堂宇は戦後再建されたもの。 A下中央:千日前新金比羅C右下:千日前法善寺境内内金比羅大王 法善寺横丁は、大阪生まれの織田作之助作「夫婦善哉」(1940=昭和15年)で、一躍有名になった。 法善寺横丁の起こりとなった法善寺は、浄土宗の寺で江戸時代初めの創建と伝えられている。当時は近くに千日墓があり、法善寺の本尊・阿弥陀如来像に極楽浄土への往生を願う墓参者が参詣し千日寺とも呼ばれていた。横丁の商店は境内の露店から発展したもので、墓参者のほかに千日前の寄席や芝居見物の客、役者、芸人らが立ち寄りにぎわった。1945(昭和20)年3月の大空襲で伽藍(がらん)は焼失したが、不動明王像(「水掛け不動さん」と呼び親しまれている)と金毘羅堂は焼け残った。法善寺横丁は2002(平成14)年9月、解体作業中の旧中座からの出火で類焼。さらに復興のめどがついた2003(平成15)年4月にも、横丁からの失火による出火で2度の火災に見舞われたが、法善寺は辛うじて難を逃れた。 下左の絵葉書(大正の頃と思われる)「道頓堀」 説明には、「カカリノ座ハ浪花座デ次ガ中座、角座、朝日座、弁天座ノ五つガオマス。」とある。 下右の絵葉書「劇場の櫛比せる道頓堀の盛況」。昭和初期のものと思われる。 |
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| (参考)松園山竹林寺HP : http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage116.htm | |||
@右上:阿弥陀池 地下鉄西長堀駅に近い北堀江3丁目の和光寺は、1698(元禄11)年に建立された浄土宗の尼寺。 『日本書紀』によると、仏教伝来で百済から贈られた阿弥陀如来の仏像を、崇仏派の蘇我氏と反目する排仏派の物部氏が「難波堀江」に沈めた。その如来を推古天皇の時代、信濃の本多善光が堀江に遊んだ時に拾い、長野の善光寺の本尊にしたと伝えられる。史実はともかく、善光寺如来出現の地として信仰されていた阿弥陀池の地に、1694(元禄7)年に四天王寺で善光寺が出開帳を行ったのを契機に和光寺が建立された。善光寺の特別な末寺として格式が高い和光寺には、信濃に行けない関西人が沢山参ったという。 A右下:土佐稲荷神社 阿弥陀池から300mほど西に土佐の石宮「土佐稲荷神社」がある。土佐稲荷神社は、土佐高知藩蔵屋敷の鎮守社として、1770(明和7)年、山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請した、また古く1573〜92年(天正年間)の創建で、1717(享保2)年土佐高知藩主山内豊隆が家臣に命じて社殿を造営し、一般の参拝を許したともいわれているらしい。土佐の鰹を商都大阪へ運び、そこから全国へ流通させた。その市が立ったのが鰹座。現在の新なにわ筋と長堀通りの交差点、鰹座橋(かつおざばし)はその名残。別名土佐殿橋(とさどのばし)とも呼ばれた。 境内は江戸時代から桜の名所として知られ、1851(嘉永4)年建立された其角の「明星や桜定めぬ山かつら」の句碑がある。社殿および桜の古木は、太平洋戦戦争で焼失したが、社殿も復興し、戦後植えた桜の若木も成長して、夜桜の花見が復活した。 B左上:四ツ橋、 堀や川の多い大阪には「橋」のつく地名が多い。江戸時代、西横堀川と長堀川の交差する場所に、井の字状の4つの橋が架けられていた。この4橋を総称して「四ツ橋」と呼んでいた。1908(明治41)4年、市電が敷設されると、大阪で最大の交差点となり、これ以降「四ツ橋」は橋名ではなく、地名としてこの交差点を指すようになった。なお、西横堀川・長堀川は埋め立てられて、現在は橋の姿はみえない。 C左下:大阪文楽座 古代から長く知られた大道芸の人形芝居と、音楽に乗せた語り物が結びついて生まれた人形浄瑠璃。浄瑠璃の竹本義太夫と作者の近松門左衛門という二人の天才と、それを熱狂的に支持し、楽しんだ大阪の地が、いつしか「本場」の地位を確立し、もともとは、大阪を代表する人形浄瑠璃の芝居小屋の名前だった「文楽」が、人形浄瑠璃そのものを指す言葉となったという。明治維新後、1872(明治5)年1月に道頓堀の東(現国立文楽劇場の近く)に建てていた小屋を松島新地に移転し文楽座劇場が建設された。今まで、借り席で営業していたため、文楽席とか、文楽軒の芝居と呼ばれていたが、このときから劇団も劇場も「文楽座」と呼ばれるようになった。1909(明治42)年”文楽”の興行権は松竹に移り、松竹は1930(昭和5」)年四ツ橋に洋風建築の文楽座をオープンした。1955(昭和30)年、国ではこれを重要無形文化財に総合指定しました。1938(昭和389年に文楽は松竹の手を離れ、文楽協会の手で運営されることになった。この文楽協会をはじめ、大阪府・大阪市・関西財界が、文楽の本拠地である大阪に文楽のための国立劇場を作ることを要望し、1984(昭和59)年4月、国立文楽劇場が開場した。 |
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| (参考)ようこそ文楽へ : http://homepage2.nifty.com/hachisuke/index.htm | |||
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