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| ここでは、大阪名所絵葉書、昭和初期のものと思われるもの26枚+13枚計39枚と、大正の頃のものと思われるもの10枚の合計49枚をご案内しています。単にコレクションの絵葉書の紹介しているだけのものですが、古い絵葉書なので、ただ、絵葉書だけを貼り付けてもと思い、それぞれに、調べて分かった範囲内での説明を付しております。この情報に関しては、大阪市関係の資料やウエブ上のものを参考にする他、お友達からも情報の協力を得ました。中には誤った記載があるかも分かりませんが、そのときはお知らせいただけると有難いです。 | ||||||
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| ここでは、大阪名所絵葉書、昭和初期のものと思われるもの26枚+13枚計39枚と、大正の頃のものと思われるもの10枚の合計49枚をご案内しています。単にコレクションの絵葉書の紹介しているだけのものですが、古い絵葉書なので、ただ、絵葉書だけを貼り付けてもと思い、それぞれに、調べて分かった範囲内での説明を付しております。この情報に関しては、大阪市関係の資料やウエブ上のものを参考にする他、お友達からも情報の協力を得ました。中には誤った記載があるかも分かりませんが、そのときはお知らせいただけると有難いです。 | ||||||
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| 上左絵葉書(昭和初期) @左下:大阪鉄道局 戦前の国有鉄道は「鉄道省」の管轄下にあった。その出先機関として設けられたのが、大阪鉄道局。大阪駅の北側の梅田貨物駅との間に建てられた。新京阪ビルや阪急梅田ビル(デパート併設)と比べてどことなく威圧的である。戦後は公共事業体の日本国有鉄道となり、近畿圏の鉄道運行を束ねる「大阪鉄道管理局」の建物として使われたが、、国鉄の分割民営化の際には、JR西日本には引き継がれず、国鉄清算事業団が管理する資産となり、債務償還のために売却された。更地後に建設されたビルにはヨドバシカメラが入居している。 A右上:堂島ビルディング 大正末から昭和の始め、全国で「ビルディングブーム」があり、10階建て以上のオフィスビルがあいついで建設された。なかでも拡幅を終えた御堂筋に面する堂島ビルディング、1923(大正12)年竣工は、西日本を代表するモダンな建物として全国に名を知らしめていた。外装を何度か変更したため、今は往時の面影はないが、東のマルビルと比肩するほどの名建築であった。堂島ビルディングの最大の特色は、ビルのなかに都市的な機能を集めていたことである。まずなによりも珍しいのは「堂ビルホテル」と称するホテルが入居していた点。今では当たり前だが、ビルの中にホテルが収まるのは、日本でははじめての試みであった。 上右の絵葉書 「交通街路整頓せる堂島ビルディング付近」・・・上の絵葉書、昭和5年頃よりは、少し時代が新しいものだろう。 |
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@左上:宝塚新温泉 宝塚には古くから温泉があったらしいが、近くは1884(明治17)年に武庫川沿いの現在の温泉街に鉱泉が発見され、1887(明治20)年には、掘削が成功して宝塚温泉が開業した。1898(明治31)年に武庫川の大洪水があり、温泉の建物が流されてしまったが翌年には再建、大正初期には、旅館30軒に増えていた。こうして現在にいたるまで繁栄が続いている。温泉街の繁栄を支えたのは、(1897(明治30)年に現JRの阪鶴鉄道の開通、続いて1910(明治43)年現阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道の開通である。特に箕面有馬電気軌道の創業時の専務、小林一三が考えた色々な集客策が宝塚で実施された。遊園地、宝塚新温泉、その客寄せに考えられた少女歌劇が1914(大正3)年にスタート、発展を続けた。 A右下:阪急百貨店。 創業:1929( 昭和4)年4月 。阪急百貨店の創始者であるとともに、阪急東宝グループの創業者である小林一三は、1907(明治40)年、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の創立に参画、その経営を任されて以来、鉄道建設とその沿線開発を着々と進めた。その手法は、土地・住宅分譲をはじめ温泉、動物園、歌劇場の開業など沿線の観光地化まで生活に密着しながらも実に多彩な事業展開であった。その沿線開発の急速な進展は、ターミナル駅の梅田の乗降客の混雑を招くまでになった。これに目をつけ駅に隣接した阪急ビルに直営マーケットを開業。世界初のターミナルデパート、阪急百貨店りが誕生した。 B中央:十三大橋 摂津国の上流から数えて十三番目の渡しであったことが、「十三」の地名の由来になった といわれるほど、淀川には多くの“渡し"があったとか。江戸時代には淀川や中津川には1本の橋も架けられていなかったが、この地の村民の共同経営の橋として、1878(明治11)年、私設橋がこの地に初めて架けられたという。1899(明治32)年の新淀川の開削工事が始まったのに伴い、1909(明治42)年5月に鉄橋が完成した。連続アーチが美しい現在の十三大橋は、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのに伴い、1930(昭和5)年1月に着工し、同7年1月にに架け替えられたものである。 |
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| 上左の絵葉書(昭和初期) @右上:堂島川ダム 1926(大正15)年に起工し1929(昭和4)年に完成した堂島川可動堰という、他の5か所の堰とともに河川浄化を目的として建設されたゲートである。戦後は長堀川、江戸堀川、京町堀川の可動堰が川の埋めた立てでなくなってしまったことで、運転は休止されていたが、1966(昭和41)年3月から再開される。堰の上は広い歩道橋となっていて、今は、この橋を「水晶橋」と呼んでいる。1982(昭和57)年の橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定され、現在は名実ともに橋となっている。ライトアップされ水面に映える姿が美しく今は、夜景の名所ともなっているそうだ。(右のものも堂島川ダム) A右下:中之島大川 文字どおり川の中の島で、大阪の主要な施設が並ぶ地域。中之島の東端で大川が分流され、島の北側を堂島川、南側を土佐堀川という。現在の東端は天満橋と天神橋の中間あたりだが、江戸時代には難波橋にも届いていなかった。1879(明治12)年に、東部分が公園地となり、豊国神社や料亭、浪花温泉などがつくられた。1915(大正4)年、難波橋が堺筋につけ替えられた際の埋め立てで、ほぼ現在の中之島の形となった。 B左上:控訴院、 大阪控訴院は、 堂島川をはさんで、中央公会堂と対面する大阪高等・地方・簡易各裁判所のビル。初代の大阪控訴院が建てられたのは、1890(明治23)年、煉瓦造りで3階建てだったが、6年後に焼失。二代目は1900(明治33)年に完成したが、1910(明治43)年の「北の大火」で焼失している。この絵葉書の建物は、1917(大正6)年に完成し、「赤煉瓦」と呼ばれて親しまれた三代目。建設に7年もかかった豪華な建物であった。 現在のものは四代目で1974(昭和49)年に完成したもの。 C左下:中之島中央公会堂 完成は1874(明治7)年、赤レンガ造りで、玄関ポーチに巨大な4本の石柱、上部に半円型ステンドグラスの大窓、内部には大ホールや集会室があり、内装はネオ・ルネッサンス調で構成されている。明治の株式仲買人・岩本栄之助が、私財を投じて建設、大阪市に寄付した建物であるが、本人は、株価の高騰で資産を失い、中央公会堂の完成を見ずに自殺したとのこと。2002(平成14)年に保存、再生工事がなされた。 上右の絵葉書(昭和初期)「水の都の美観、堂島川ダム」 上左@のものが昭和5年ごろのものと思うが、この絵葉書は、もう少し新しいと思う。 |
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@右下:難波橋 難波橋は、現在では堂島川、中之島公園、土佐堀川にまたがって架かり、ライオン像を有する「ライオン橋」とよばれ、親しまれている。江戸期には浪華三大橋として公儀橋に指定されていた。1876(明治9)年、中之島が難波橋の辺りまで延び、それまで一本で架かっていた橋が北側と南側に分けられた。この時、北側部分だけが鉄橋になり、南側はしばらく木橋のまま使用された。1915(大正4)年に現在の場所に架け替えられた。中之島公園の都市景観を考えて、高欄には市章、豪華な照明灯などがつけられた。 A左上:中之島音楽堂 今の野外音楽堂は1972(昭和47)年に開設されたものとか。大阪市民が気軽に音楽を鑑賞できる場として、また、青少年の音楽活動の発表の場として利用されているそうだが、この絵葉書のものは正確には何時出来たものかわからない。恐らく公園が出来た頃に造られたものと推定している。 下左の絵葉書(昭和初期)「黄塵繁劇の巷に清気を興ふる難波橋付近」とある。左Aのものが昭和初期(5年頃)のものと思われるが、それよりは、少し新しいものだろう。 下右の絵葉書(大正の頃)「難波橋」 |
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@右上:大阪貿易館 何時出来たのかなどよく分からないが、大阪府立貿易館跡の石碑が「マイドームおおさか」にあるようだ。ここのことはよく分からないので、「大阪府立貿易館のあゆみ」(出版者:大阪府商工部ソフト産業振興課)が出ているので詳しいことはこの本をどうぞ。 A右下:高麗橋 高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来はこの辺りに高句麗の使節のための迎賓館があったとか、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するとか諸説ある。かつて大坂から伸びる街道はこの橋を起点としていた。幕府が直接管理する公儀橋の中でも特に重要視されていた。1870 (明治3)年大阪で最初の鉄橋に架け換えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は1929(昭和4)年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。 B左上:中之島豊国神社 豊国神社は豊臣秀吉を祭った神社であり、今、大阪城内にあることに何ら不思議はないが、この神社、初めは、明治天皇の命により、京都に造営された豊国神社の別社として中之島に造られた。1879(明治12)年創建。場所は現在の中央公会堂の辺りであったが、後にこの辺りが行楽の地になり、火事に遭ったり、近隣に料亭が軒を並べるようになったため、1912(大正元)年、現在の大阪市役所市庁舎敷地の東側半分に相当する場所に移転。その後、1961(昭和36)年、現在の地・大阪城内に移されたという。 C左下:中之島公園大噴水 この噴水も正確な出来た年代は分からないが多分、公園が出来た頃同時に作られたものだろう。 |
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@右上:崇禅寺馬場 現在、「崇禅寺」は東淀川区東中島のあり、号は凌雲山。本尊釈迦牟尼仏。聖徳太子創建の説もあるが、開基は徳叟享隣和尚。嘉吉の乱に倒れた足利六代将軍義教の菩提を弔うために建立された。崇禅寺門前の馬場で1715(正徳5)年におこった遠城治左衛門重広、安藤喜八郎光乗兄弟が仇の生田伝八郎に返り討ちにあった。境内にはこの2人の義士墳がある。この「崇禪寺馬場」の出来事は、大阪を舞台にした有名な逆縁仇討の物語として語り継がれ、攝津名所圖會にも記されている。又、宿縁の人・生田伝八郎を大友竜太郎が演じる映画も製作されている。 A 右下:毛馬閘門 毛馬は、淀川と大川が分流する地点。大阪の大事な水源でありながら、淀川は昔から何度も氾濫も繰り返した。そのために近代治水工事の発祥ともいえる大規模な治水工事が行われ、開削工事と閘門の建設が行われ、1909(明治42)年閘門が完成した。「旧毛馬閘門」の遺構は淀川河川公園に保存されている。 B左上:造幣局 幕末に、日本小判の流出を防ぐために久世治作が行った貨幣鋳造の建議に基づき、長崎のイギリス商人グラバーを通じて、銀貨鋳造機を購入。その機械を据える場所として、水利や交通の便などから選ばれたのが、川崎御蔵の跡地、現在の造幣局であった。1869(明治2)年2月、明治政府が大阪に造幣局を設置。香港の造幣局からイギリス製機械を購入し、イギリス人技師の指導を受けながら、2年3カ月の月日をかけ、明治4年(1871年)に完成。慣れないレンガ造りの西洋建築に工事は難航したが、18718明治4年)2月に開場。造幣局においては建物だけでなく、貨幣の鋳造方法なども西洋式のものを採り入れ、職員は断髪、廃刀、洋服を義務付けられるなど、大阪の西洋化を推し進める効果もあった。 C左下:桜宮大橋 桜宮には、1902(明治35)年10月、桜宮橋の上流に橋が架けられ、澱川橋(淀川橋)と呼ばれたが、1930(昭和5)年の桜宮橋の完成により姿を消した。この橋は第一次都市計画事業によって大川(旧淀川)に架けられた戦前では日本最大のアーチ橋である。この桜宮大橋をデザインしたのは、国会議事堂の設 計にも関与し、大阪城を桃山時代風に再現した建築家・武田五一(たけだ・ごいち 1872〜1938)である。架橋地点の地盤が悪いことに配慮し、橋脚が多少沈んだり移動したりしても、アーチに無理な力がかからない設計になっているらしい。橋の色から「銀橋」の名前で親しまれる。 |
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| (参考)攝津名所圖會大成(崇禅寺馬場) : http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/Nagara/LIB/taisei/ | ||||||
造幣局の桜 桜宮の地名は、大川の東岸にある神社の名に由来している。江戸時代から桜の名所として有名で、境内ばかりでなく大川の両岸、川崎から長柄の近くまで桜が続いていた。花見の頃には、境内の前から対岸の川崎の浜に渡船が通じ”桜の渡”と呼ばれた。また、明治になって西岸に造幣局が造られ、1883(明治16)年から”通り抜け”が行われるようになった。造幣局は、桜の通り抜けで有名だが、造幣局の桜は開業時に近くにあった藤堂藩の蔵屋敷から移植されたものだという。 毎年4月中旬〜下旬の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長560mの通路を一般花見客のために1週間開放している。現在構内にある桜は、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、黄桜、楊貴妃など約120品種、約400本を数えているが大半は遅咲きの八重桜である。紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などは、他では見られない珍種と言われている。 |
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| (参考)「明治政府が大阪に造幣局を設置」: http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/619c2af616b1b2a56bd57d717d08392e | ||||||
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