りょうくんへ

 亮君への励ましのメッセージは、「救う会」宛に、「救う会」掲示板に、私宛メールに、そして、たくさんの募金とともに添えられて、それはそれは、とてもたくさんの数をいただきました。

 

 


  「救う会」 掲示板より

   

  りょう君ありがとう
                         神戸市立舞子中学校   熊丸 哲夫 教頭先生
                  

 りょう君、きょうの「お別れ会」びっくりしたでしょう。ほんとに数多くのみなさ
ん方に見守られていたのですね。
私は教職員の一人として、あなたのおかげで「学校・地域・保護者」がこれ程
まで、一つになって行動できたと感謝しています。人々の心の優しさや温かさ
を身近で感じて、また勇気が湧いてきました。

 教育を取り巻く環境が厳しくなっている中で、社会がどうだとか、今の中学
校はだめだとか、教育はどうだとか、簡単に言う人にこそ、今日の「お別れ
会」に参列して欲しかったと思いました。参列したら、そんな愚痴や泣き言な
ど簡単に他のせいにする自分が恥ずかしくなりますからね。
 今日参列した舞子中の一人ひとりが、あなたが懸命に生きようとして果たせ
なかった分まで、きっと「強く生きよう!」と心に誓って、会を後にしたと思いま
す。3年生は、卒業まで残り4ヶ月と3週間となりました。彼らは、必ずや明日
から「りょう君の分まで」頑張ります。天国から32回生のみんなを見守ってい
てください。

 

今、亮君が所属していた3年4組の廊下側から2列目の前から4番目の席は”
常にお花”が飾られて絶えることがありません。間違いなく「亮君」は、私たち
の心の中で生きています。

 


 

  亮くんへ
                            国立循環器病センター 亮君担当の
                               亮君が大好きだった看護婦さんから


本当に本当によく頑張ったねえ・・・・
亮くんの頑張る時間を一緒に送って、毎日何かに喜んだり、驚いたり、笑ったり、泣いたりしました。
座れた時、立てた時、食べれた時、みえた時,書けた時、お母さん、お父さん、るりちゃんと一緒に喜んだね。
悲しくって、つらくって、さみしくって、怖くって泣いた夜、一緒にいろんな話したね。
「やっぱり生きたいからアメリカいって頑張る」そういって、涙流してた亮くんがわすれられません。
いろんな時を一緒に過ごして、一番しんどい時間を一緒にいられなかったことが、残念です。
でも、亮くん、これでやっと自由になれたんだねえ。痛い思いもしんどい思いもないんだよね。
この掲示板のお母さんと写ってる照れ笑いの亮くんをみると、いろんな思いになります。
会いたかったよ・・・もう一回。
亮くん、ホントよく頑張ったねえ。ゆっくりゆっくり休んでね。
今まで、我慢してたいっぱいのやりたいことできるんだよ。
亮くんに出会えて、ホントよかった。
忘れないからね・・・
タイキシャトルに乗ってはしゃぐ亮くんがふと思い浮かびました。

お母さん、お父さん、るりちゃんお疲れさまでした・・・

 


  自由のつばさ

                               中日新聞 1999年11月18日付
                                ぺーばーナイフ  記者 上田 康平

    「再移植しか生きる道はありません。」 両親は担当医の告げる声が信じられなかった。
   米国で心臓移植手術をした神戸市垂水区の中学三年、砂川亮くん(14)の鼓動はよみ
   がえったばかりだった。 薬で眠っているはずの亮くんの左目から一筋の涙が流れ、
   ほおを伝った。

   原因不明の難病で命が危ぶまれた彼の力になることができればと、6月28日付本欄
   で紹介させてもらった。 現行の臓器移植法では15歳未満は心臓移植できない。
   米国での移植手術には1億円もかかったが、県内でも支援の輪が広がり目標額に
   達した。
 

   7月中旬に渡米、待機していた亮くんは9月3日、念願の手術を受ける。 だが、その
   2日後に心停止に陥り、人工心臓を着けての闘病生活を余儀なくされた。 口に管を
   入れているから話せない。 紙片に「ありがとう」と走り書きをし、付き添いの父と母に
   手渡した。 両親と支援者たちは街頭に立ち、手術費用の募金を呼びかけてくれた。
    全国から善意が寄せられた。 亮くんは感謝の思いを言葉に込めたのだろう。

   懸命の治療も及ばず約1ヶ月後の先月4日、涙を流したほおを再びぬらすことは
   なかった。

   元気になったら、馬に乗るのが夢だったという。 意識がなくなるまで、その願いを
   思い描いていたのではないだろうか。 今ごろ、大好きな馬につばさを付け、空を
   駆けているかもしれない。 今度こそ、永遠の自由を手に入れた、と誇らしげに。

   そうだよね。 亮くん。

 

シカゴ新報  1999年10月20日号  より

  心の灯り                            中西部仏教会住職   

   砂川亮君が14歳を1期としてこの世から去っていった。
  テキサス州ヒューストンのベイラー大学医学部人工臓器部部長、能勢之彦ドクター夫妻
  より電話を受けたのは10月4日午前6時30分頃であった。

  亮君は神戸より渡米、テキサス・ハートインスティテュートにおいて心臓の移植を受けた
  のは9月3日であったという。
  心臓移植を受けて元気になって帰って来て欲しいと学友を始め、先生、父兄、隣人の
  厚意によって募金が始まり、希望に燃えての旅立ちであった。


  日本からの医学研究生と家族、滞在中に知り合った人々の参列を得た悲しい葬儀で
  あった。


  人間が体験する最大の悲しみがあるとすれば、子供に先立たれた両親の悲しみを
  挙げることが出来よう。 特に母親の悲しみは悲痛である。
  

  棺に合掌される若い両親と亮君の妹の姿に読経中の和尚の声もつまってしまった。
  葬儀後、夜食の時に「亮君に一番してあげたかった事は何でしたか」とお母さんに
  聞いてみた。 「心臓補助器を取り外して普通の子供と一緒に普通に走らせて上げた
  かった」と涙の目で答えられた。 亮君のお陰で色々な体験をさせて頂きました。
  色々な人の親切心、真心に出会うことが出来たことは私の宝ですとも付け加えられた。
  「人間の幸せとは何でしょうかね」と問いかけると「よく解かりませんが、普通のことを
  普通に出来ることではないでしょうか」と謙遜に答えられた。 

  普通にして簡単な表現であるが、実に意義深い味わいである。
  子供の死という究極な立場に立たされた悲しみの中から目覚められた味わいであり、
  体解であろう。


  シカゴに帰る機上にて静かに合掌をした和尚であった。 
  雲が涙にかすれて、雲も涙してくれた事を憶えている。            合掌。


   〜この記事は、シカゴに暮らしている私の友人が、シカゴで見つけくれた記事です。
    日系の食料品店などに、無料でおいてあるミニコミ誌的なものだそうです。 彼女は
    いつもは飛ばし読みをするところを、この記事の分に限り、なぜかしっかり読んで
    いたそうです。 亮君の話を知っていた彼女は、記事を読んでショックを受けながらも
    「なんだか目に見えない力で、読みとばさないようにされた気がして、縁を感じ」て
    電話をかけてくれ、そして、記事を送ってくれました。 シカゴの小さなスーパーに
    置かれていた「シカゴ新報」の亮君の記事。 友人が見つけてくれた不思議なめぐり
    あわせに、びっくりします。 住職さんの許可をもらっていませんが、この不思議な
    偶然に免じて、お許しして頂けるものと思い、掲載させていただきました。〜


 


 舞子中学 広報誌より 1
  りょう君  一緒に卒業しようね

  昨秋、懸命な闘病の日々を送りながらも亡くなられた砂川亮君のクラス(3−4)では、
  亮君の机の上に毎日色とりどりのお花が生けられています。
  この花を見ていると、「いつも私達と一緒に亮君が生活しているような気がします。」
  「亮君はいっぱいやりたいことがあったと思います。 亮君の分まで頑張りたいです。」
  とクラスメイトが語ってくれました。 彼女達の横でスイートピーやステーチスのやさしい
  花々が微笑んでいました。

  〜14日の卒業式では、答辞のあいさつや、校長の式辞の中でも亮君のことが触れられ、   
  涙を誘っていたそうです。

  〜バレンタインデーには、同級生の女の子たちが、お花をもって、亮君のおうちへ
  遊びにきてくれたそうです。 嬉しかったよね。



舞子中学 広報誌より 2 

亮君へ届け!!!
(舞子中学文化祭モニュメント)

砂川君まで 想い届け!!


全校生で折った七千羽の鶴。
その鶴1羽1羽に砂川君への想いがこめられています。
みんなの想い  天国まで届け

制服のそでを真っ青にしながら、みんな一生懸命作ってくれました。
亮君、みんなの想い届いたよね。

 

 
 りょうくんへ ありがとう

                                   萩原正人さんから

 
 はじめまして、萩原正人と申します。

 お陰さまで、無事移植に成功しまして、八月四日に帰国しました。
 そして、九月中旬に東京に戻りまして、また新しい生活を始めました。
 これまで応援していただきまして、ありがとうございました。

 僕は八月に渡米しました。りょうくんとは、ヒユーストンとダラスということで、
 一見地図でみると近そうで、お互い隣町で戦う闘病仲間と、勝手に思っていました。
 お互いどれだけ、待機するかわかりませんが、
 もし移植に成功したら是非お見舞いにいきたいなと、
 僕はパソコンをアメリカに持ち込んでいました。ネットにつなげば、
 日本の情報も入るし便利なのですが、知りたくなかったことまで、
 目にしてしまうこともありました。
 それは、妹からの連絡だったのか、それともネットで直接知ったのか覚えていないの
 ですが、
 りょうくんのHPを見ました。
 渡米してから、まだ二ヶ月のことでした。
 お互い、移植に成功したら会いたいなーなんて、軽い思いはなんて甘い発想だったん
 でしょう。
 りょうくんは、ぎりぎりのところでずっと戦っていたんですね。

 それでも、救いになるのは、これほど多くの人から愛情を受け、
 久々にHPにきたのですけど、りょうくんは生きてるなと思いました。

 僕はりょうくんに助けられました。ヒューストンでの訃報を知った時、
 それならオレは死なないと、決意をまた新たにしました。
 仇はオレがとると。
 バカな考えと笑って下さい。

 墓前のりょうくんになんて言葉をかけてあげられるのだろう。
 悩みます。
 こんなおじさんが助かって、りょうくんが亡くなるなんて。
 りょうくんは、ずっと病と戦ってとても大変だったろうけど、
 こんな優しいママに出会えて、最高な人生だったと思います。
 きっとりょうくんは、これからもみんなを励ましつづけて、生きていると思います。

 りょうくん、ありがとう。

 

 

 萩原さんには、ダラスから何度も励ましのメッセージをもらいました。
 このHPがアップした時から、「萩原さんを救う会」の応援リンクを貼って、ずっとトップの
 ページから応援していました。 待機中、腎臓の機能も悪化し、移植が必要と診断され、
 何度も意識が混濁され、厳しい状況で、ずっと戦っておられました。 
 2000年4月末に、肝臓、腎臓同時移植手術が行なわれ、無事に成功、8月に帰国されて
 ます。