1月17日 阪神淡路大震災

 

 

(2000.1)

3連休が終わる火曜日の未明5時46分、激しい揺れで飛び起きました。 今まで経験したことがないその激しい揺れに、思わず隣で寝ていたたっちゃん(その時2歳4ヶ月)に覆い被さりました。 後で聞いたら、お兄ちゃんにはパパが被さっていたそうです。 部屋の外から聞こえる食器が割れる音、何かが落ちる音、いつまでも止まらない揺れに、「なに? なに? なに?」って感じで、部屋の外で何が起こっているのか、どういう状態になってしまったのか、想像つきませんでした。 

でも、私たちはまだマシでした。 神戸の東の方では、その時、もっともっとひどい状態になっていたのですから。 でもでも、そこまで、まだ考える余裕はありませんでした。 やっと揺れが落ちついて、懐中電灯をさがしても・・・見つかりません。 ラジオも・・いつもコンセントから聞いているので、電池がなくて聞けませんでした。 あわててプラレールから電池を探す始末でした。

部屋の外は、特にキッチンが食器が割れてひどい状態でした。 部屋の中が巨大な扇風機で吹き飛ばされたような散らかり方でした。 色々なものが倒れたり、散乱していていました。 でも、この時、たくさんの人が瓦礫の下敷きになったり、尊い命を失っていたのです。 震源地は目の前の淡路島だったのに、うちのマンションは半壊の認定で済んだのです。

しばらくして、外へ出てみたら、マンションの人達もおのずと集まってきていました。 うちの玄関から外へでる階段の下が陥没してしまって、アスファルトに大きな穴があいていました。 で、壁には大きな亀裂が・・その横の壁にも大きな亀裂・・・ みんなで、陥没した穴をのぞきこんでいた時に、パパが携帯ラジオをもってきました。 やっと、それで、状況が少しずつ、わかってきました。 はじめに聞いた情報は「垂水区のマンションが崩壊・・」でした。 えっ、ここも垂水区じゃない。 「阪神高速が倒壊・・・」 この言葉にただあ然と、ただ想像がつかなくて、思わず、目が合った友達のご主人と、ただ呆然と見詰め合っていたことを覚えています。

とても寒い朝で、空からちらちら雪が降ってきました。 「こんな大きな地震の日に、雪なんて降らなくてもいいのに・・」って、落ちてきたものを見てびっくりしました。 それは、風に飛ばされてきた灰だったのです。どこかが燃えているんだ・・と思うと、やり切れない思いでした。



 神戸の小学校では震災後、「しあわせ はこぼう」という教科書が配られています。
 小学生の作文から、高学年の教科書には、もっと深く掘り下げて、地震の起こる
 わけ、どのように人が協力して、努力して、復興していったか、自然災害の恐ろし
 さ、などなどが書かれています。 その教科書に小学校で歌い続けられている歌
 があるんです。 神戸の小学校の先生が作詞作曲した歌です。

 しあわせ運べるように
 1. 地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも
    毎日を 大切に 生きてゆこう
    傷ついた神戸を 元の姿にもどそう 支え合う心と 明日への 希望を胸に
    響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる 神戸のまちに
    届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように


 2. 地震にも負けない 強い絆をつくり 亡くなった方々のぶんも
    毎日を 大切に 生きてゆこう
    傷ついた神戸を 元の姿にもどそう やさしい春の光のような 未来を夢み
    響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる 神戸のまちに
    届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

 この曲は、冬ルミナリエの点灯式の時、小学生のコーラスでいつも歌われて
 います。

 私はこの曲がとても好きです。 この歌を聴くと、いつも胸が詰まります。


 

パパの実家へ行くと、まだ電話が使えるというので、母が「名古屋のお母さんに電話をかけ」と言ってくれてみんなの無事を伝えることができました。 あと、助かったことは震災の直前にたっちゃんのおむつが取れていたことです。 紙オムツの心配がありませんでした。 (本当は義母と書くところなのですが、どうにも義母の響きが、親しみにくいので、母と書きます)

その日の、お昼には、電気が通りました。 それもすごくありがたかったです。 何故なら、レンジが使えるから・・そのかわり、ガスと水が全くでなくなっていました。 この日からお風呂に入れない生活に突入しました。
電気がついたことによって、テレビが見れて視覚的に激震地がどういう状況になっているのかがわかりました。 テレビを見て、パパがおばあちゃんの住む長田区の状況がひどいことがわかって、バイクで様子を見に行きました。 後で、聞いた話ですが、この時、神戸の母はおばあちゃん(母の母)は、だめかもしれないって覚悟していたそうです。 画面から見る神戸の街は、あまりにもひどい状況で、信じられない状況で、みんなで見ながら泣いていました。

神戸新聞の夕刊がいつだったか時間を覚えていませんが、届きました。 これには、正直びっくりしました。その新聞は号外のように、ページ数はなく、ペラペラの新聞だったけれど、この状況で新聞が届いたことがとても不思議でした。 後で、「神戸新聞の100日(神戸新聞社著)」を読んで、この日のこの夕刊が、京都新聞の協力を得て、神戸新聞社の人達の熱い思いと、たくさんの人の手によって、発行されたものかがわかりました。 あの日、原稿は京都で作られて、そのフィルムは、バイクで、激震地を抜け神戸市西区で印刷されていたんです。 4ページの夕刊でしたが、今でもその夕刊はうちに大切に取ってあります。

夕方、パパが帰ってきました。 おばあちゃんは、倒壊したアパートから助け出されて避難所で会ってきたということでした。 ホッとしたのもつかの間、おばあちゃんを迎えに行くためにパパと母は今度は車で長田へ行くことになりました。 車で行けるんだろうか・・でも、行くって言っているので、もう任せるしかありません。

夜までに、マンションの同じ棟の人が、次々と非難していきました。 残されて、パパも長田から帰ってこなくて、余震が続いていて、もう、怖くて、寝てしまったたっちゃんを毛布にくるんで、結局私もパパの実家に泊まることにしました。 夜、長田区の火災がどんどん広がって、まっ赤な炎に包まれている画面を見て、「もう、やめて。誰か、止めて」って声にならない叫びをあげていました。 

そんな中、パパのいとこが姫路から、たくさんのお米、野菜をもって来てくれました。 あの混乱の中、ワゴンに自転車をつんで、行けるところまで車でいって、最後は自転車で来るつもりだったって言ってくれました。 胸が詰まりました。 前後して、おばあちゃんを連れて、母とパパが帰ってきました。 おばあちゃんのアパートは全壊でしたが、そこで8人が尊い命を落していました。 おばあちゃんは素足でした。

その夜は、たびたび来る余震が怖くて、長田の火災が気になって、なかなか眠ることができませんでした。