りょうくんの闘病記

誕生〜 「救う会」発足まで

りょう君、砂川亮くんは、砂川家の長男として、昭和60年1月7日に生まれました。両親の愛を受けてすくすく育っていった亮君が突然の病に犯されたのは生後11ヶ月のとき。「川崎病」がその病名でした。亮君は川崎病でも1万人に一人という最も重い後遺症が心臓の血管に残ってしまいました。

それでも、内科的治療の結果、昭和61年2月に退院、定期的に冠状動脈の検査(カテーテル検査)を受けなくてはなりませんでしたが、小学校に無事入学、兵庫県立こども病院で10年間通院治療を受けました。

平成9年8月、亮君12歳の夏、カテーテル検査の結果、心臓血管の狭窄がわかり、国立循環器病センターに転院、平成10年9月にロートアブレーターを行いました。結果は大成功。亮君は運動の制限も少なくなり中学生活をエンジョイし、本当に普通に暮らしていました。

平成11年2月ロートアブレーターの経過をみるために検査入院をし、カテーテル検査が終了して2時間後、亮君の様態が急変しました。「合併症による急性心筋梗塞」をおこし、突然、亮君の心臓が止まってしまったのです。『検査のショックで血栓が、突然飛んでしまい、それが心臓につまって心筋梗塞をおこした』ものと思われました。すぐに緊急手術を行い、経皮的心肺補助装置をつけ、心臓が動き出すのを待ちました。

3日目、元気だったほかの臓器も弱ってきたため、補助人工心臓をつける手術を受け、10日後に亮君の意識はやっともどりました。亮君の病名は「川崎病による急性心筋梗塞および重症左心不全」というものでした。

3月末には血栓が頭に飛んで、脳の血管がつまってしまいました。心機能の回復は見られず、もはや、早急な心臓移植以外に亮君の命を救うことができないと、担当医から言われ、ご両親は亮君の若い命を救うため、海外での心臓移植にかけることを決意しました。

アメリカのテキサス心臓研究所で受け入れていただくことが決まりましたが、この心臓移植手術を行うためには、渡航費用、心臓移植手術費用、滞在治療費約8000という個人ではとてもまかないきれない莫大な費用がかかることもわかりました。

そこで、亮君の両親の友人が「りょう君を救う会」を結成しました(4月中旬〜下旬)。 5月初旬には、募金活動の計画、記者会見に向けての準備が着々とすすみ、連休明けに、受け入れ先の病院(テキサス心臓研究所)が決まりました。 同時に募金の趣旨書も完成。

その後、県庁へ記者会見要請のFAX、記者クラブへ記者会見お知らせFAXを流し、

5月24日 県庁にて、記者会見をし、募金活動が開始となりました。 記者会見には、多くの記者の方々に集まっていただき、TV、新聞にも取り上げてもらいました。

募金活動は、街頭募金、バザー、店舗で募金箱の設置、PTA各種団体など、組織を通じての協力の要請、「りょうくん通信」の発行、チャリティーコンサート、など 地域から始まった運動が、全国にもおよび、5月24日の募金活動開始以後、1週間で3000万円を超え、6月中旬には6000万円に、1ヶ月後の亮君が渡米するころには(7月中旬)1億500万円を越える善意のお金が暖かい応援のメッセージとともに集まりました。 8月下旬での総額は1億3500万円です。