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ちょっと人と話す機会があったので、この件について自分の考えを述べてみたいと思う。
マスコミや世間において、「アニメとゲームは日本が世界に発信できる文化である」とはよく言われている。にも拘らず、オタクに対する周辺の人々の反応は依然として冷たいし、オタクはキモがられるだけでモテるという話は聞いたことが無い。流行の先端を歩んでいるのだから、流行り物が好きな若者層の間でオタクがトレンド!モテモテ!みたいな話があってもよさそうなものだが。
それは一重に「オタクがキモい」、この一言に尽きるだろう。たとえどれだけ言葉を尽くしてオタク文化の素晴らしさを説明しようと、「キモい」の一言でオタクは黙るしかないのである。
ただ、ここで「キモい」と言われているのはオタク文化ではなく、オタクそのもの、ということはハッキリ意識しておく必要がある。一般人はオタク文化がキモいのではない。それを語るオタクがキモいのである。
となると、オタクがなぜキモイのか、が問題となってくる。いくつか原因が考えられるので、それを順に検証してみよう。
まず、オタクの語りがキモい、という説。オタクはとにかく自分の話が好きだ。一見他の話をしているようでも、結局は自分の話をしていることが多い。やれあの作品はどうだとか、こんなに昔から注目していたとか、グッズ自慢とか、イベントで○○さんに会ったとか……これらは全て作品や他人のことを語っているようでいて、結局は自分の話をしたいのである。
ことこれが一般人向けとなるとオタクの語り好きに加え優越感が加わって、さらに大変なことになる。日陰に追いやられている者の定めか、オタクはオタク文化に対して誇りを持っていることが多い。
「自分達は一般人の知らないこんな楽しみを、感動を知ってるんだ」
カタギに対してオタク文化を語るとき、内面でこんな考えを持っているものは多い。
一般人からすると「なんでお前が偉そうに語ってんだよ。キモっ」となる訳だ。別に当人が生み出したわけでもないのに、どうしてそんなに偉そうなのか、と。
しかし、語るだけの趣味なら他にもごまんといる。たとえば、ワインに詳しいからといっても別にその人がワインを作ったわけではない。映画についてとうとうと語ったところで、別にその人が映画を作ったわけでも、今日までの流れを作ったわけでもない。
では、これらとオタク文化の違いは何か。それは、趣味がまだ世間一般に認知されていない、という原因があるだろう。
アニメやゲームは子供のもの、という考えは依然として根強い。深夜にやっているアニメは大人…というかオタク向けだが、その中で一般人が見たいと思える作品にめぐり合う確率は無に等しい。大抵はオタ向けのディープな物なので、「オタクはキモい」の図式が依り一層強固に成り立つだけである。
映画オタと対比してみると分かりやすい。彼らが映画監督の演出や過去作品、あるいは俳優について語っているのは、オタクが演出や作画、声優を語っているのと何一つ違いはない。新聞に載っている映画評を特定の番組に置き換えてみると分かるだろう。単語を変えるだけでアニメ評論に変貌するのだから。
両者の決定的な違いは一つ、歴史の違いである。かって映画は娯楽を支配した過去があり、それ故認知度は高い。オタク文化も後50年もすれば新聞にオタク評が載るのではないか、というのが自分の個人的予想である。
少し話がずれてしまうが、上の法則に当てはまらないものもある。それは鉄オタだ。長い伝統と一時代を築いたにも拘らず、彼らがモテモテという話も聞かないし新聞に電車評が載るということもない。これについては車オタと対比して考えてみればまた別の原因が浮かび上がってくるのだが、それについてはまた別の機会に譲ることとする。
話を戻そう。他人の作ったものを語る事がキモさの根本的原因ではないことは分かった。では、別の原因について考えてみよう。
ここで、彼らの服装に着目してみたい。
彼らは一様に同じ姿をしている。全国各地からオタクが結集するコミケでは、特にそれがよく分かる。別にオタク界のファッションリーダーがいるわけでもなく、オタクトレンドが紹介されているわけでもない。にも関わらず、全国各地にいるオタクの服装はみな一様である。コミケでは固体識別は困難な程に。
そして、一種独特の「オーラ」を発している。非オタクにもそれが分かるのかどうかは自分もオタクなので残念ながら分からないが、オタクはほぼ確実にオタクの気配を感じることができる。
これらが原因なのだろうか。ここは、カタギのフリをしているオタクと比較して考えてみよう。
オタクの中には、自分がオタクであることを隠して生きているものも多い。中身は替えられないので、せめて外見だけは一般人であろうとする。
その結果、どうにか彼らは一般人の間でキモがられることなく、一応の地位を気づくことに成功している。だが、それはその存在が認知されているだけであって、内面のオタク趣味そのものが認知されているわけではないところに注意されたい。ばれたら最後、普段の積み重ねにもよるがまあ反応が良くなることはないだろう。
結局のところ、彼らは非オタ的カバーで自分を装うことで、かろうじて薄氷の上を歩んでいるに過ぎないのだ。
自分もそのタイプだが、内面は完全にオタなので一般人とあまり深い会話は出来ない。話が合わないのだ。
服装を整えることで、一般人に認知されることは分かった。一般人を意識することで、とりあえず「キモい」という究極の一言がいきなり発せられることはない。
となると、キモさはその服装や雰囲気にあることになる。
が、それらはあくまで表面上の結果に過ぎない。服装がいけてないとか、雰囲気が違ってくるための原因があるはずで、それこそがキモさの根本的原因ではないか。
オタと一般人を分けるもの。それはコミュニケーション能力の違いだ。いわゆる「キモい」と評されるオタクは、精神が現実をみていない。彼らの対象は仮想のものであり、それゆえ精神(意識)はそちらに向けられている。彼らは肉体よりも精神に重きを置いているのだ。だとすれば彼らが服装に無頓着なのも説明できる。彼らにとって肉体(現実世界)はそして重要ではないのだ。現実世界とは、精神を保つために必要最低限の肉体を維持するための場ということになる。
一方、一般人は現実世界に重きを置いている。言い換えれば、肉体に重きを置いている。一般人は肉体でコミュニケーションを取ろうとするが、オタクがコミュニケーションの窓口として主に展開しているのは精神世界であり、それゆえそもそもコミュニケーションが成り立たないのだ。
異質であるが故に例えどれだけアニメ・ゲームが世界を席巻しようと、「オタクはキモい」に変わりはないのである。オタクが現実世界で力を持ち、価値観が変わらない限りでは。
もうひとつ、別の原因。
オタクの世界が大きくなるにしたがって、大きなひずみを生み出してしまった。コミケで「買い専」と呼ばれる、オタク文化を消費するだけの存在が、膨れ上がりすぎているのだ。確かに、彼らが下支えしてくれるからこそ今の業界の発展はあっただろう。だが、彼ら「何も生み出せぬ者たち」は、確実にオタク世界を危機へと陥れる。
まず、彼らはほぼ「キモオタ」に当てはまる。キモオタでも創造できる者はまだ認知されるし、キモさも個性的、と読み替えてくれる向きもあるかもしれない。
また、大事なことだが創造するということは、コミュニケーション能力がある、ということでもある。創造とは、周囲に認知されて始めて創造となる。自分一人で完結していては、単なる想像に過ぎない。
しかし、消費するだけの人間はコミュニケーション能力が必要ない。ただ掲示板を黙ってROMって、誰かが何かをアップすればそれを黙って掠め取ればいいだけのことである。
先ほども述べたとおり、コミュニケーション能力の有無が、オタクをキモがらせている原因なのだ。だとすれば彼らが増えすぎると、ますますオタクはキモい」の図式が幅を利かせることになるだろう。
彼ら「生み出せぬ者たち」を救済するのは、パロディとかコラージュではないかと思う。それなら思いつきやすいし、そういったネタは他人に披露したいものだ。
それが気軽に公表できる場、そしてそれを受け入れる土壌が必要であろう。そこでコミュニケーションを発揮し、また他人に影響を与える。他人に影響を与えることこそが、コミュニケーションの最たるものといえよう。そうして影響を与え合っていく中に、パロディではなくまた新しいものも生まれるはずだ。