9/27「メイ」


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 「HANDMEIDメイ」が今日で終わった。
 最初はオタク向けのマニアックな番組だと思っていたが(事実、第一話はそうとしか思えない)、終盤はきちんとした物語が描かれ、終わりもすっきりしたいい作品だったと思う。
 いつものアニメ大会は既に放映終了した物をまとめてみるのだが、今回は人に録画を頼まれたこともあり、毎回一話ずつきちんと見ていった。考えてみれば、こうやって毎週一話ずつ全話見ることってほとんどなかったのではないだろうか。普段流れているアニメは、どうしても何話か抜けてしまう。また、ただ「流しているだけ」という状況に陥ることも多い。
 しかし、このアニメに関してはそうではなかった。毎回毎回、楽しみに見ていたのである。

 もちろん、このいかにもダメそうな設定に惹かれたことは事実である。だが、このアニメは、それだけに終わることはなかった。大抵のこの手のオタク向けアニメはいい加減な形であやふやなままに終わるか、途中から制作者だけが理解し喜んでいるような訳の分からないシリアス話に突入することが多い。メイの場合は、いわゆるサービスシーンこそ減ったものの、視聴者を置いていくようなことはなかった。最後まで、主人公の目線で物語を追うことが出来たのである。そして、やがてサービスシーンそのものを重視しなくなっている自分がいた。僕は、物語の舞台であるかすみ荘での、いろんなキャラクター達の騒動や気持ちの揺れ動きを見ることに重点を置くようになっていたのだ。
 そしてむかえた最終回。今までの設定やエピソードが、実は伏線だったという展開はなかなか見事である。天使のような女の子と敷島さんだけはよく分からなかったが(笑)。
 いうまでもないことだろうが、このアニメのテーマは想い出、である。最終話に至るまでのエピソードの積み重ねは無駄ではなかった。10話という短い構成だからこそ、中だるみすることもなく続いたのだろう。
 このアニメは、面白くてそして感動できる、いいアニメであったと思う。最初の方はいかにもオタク向けな作りなので、引いてしまう人もいるだろうが、これは見ることを勧めたい。このアニメがオタク向けなのは、そうすることで視聴者をつかみ、そして自然に話に引きずり込んでいくためだろう。
 そして僕は、見事にそれにはまった。いい作りをしている(笑)。

(メイを見ていて思った「感動」と「面白さ」について)
 こういうと語弊があるかもしれないが、ただ感動できるだけのものなら、簡単に作ることができるだろう。というより、「感動できる」を謳っているものはこの世に数多い。
 だが、楽しんでかつ感動できる物、となればどうだろうか。最近(昔からなのかもしれないが)、「感動できる」という考えが重視されるようになった。いわゆる「泣きゲー」がはやっていることを思い出してもらえればいいだろう。もちろん、「感動」そのものを否定はしない。むしろ、何かの作品を見て、感動したり、何かのメッセージを受け取ったりする事は素晴らしいことだと思う。以前の日記を紐解くまでもなく、僕自身も多くの作品からたくさんの感動とメッセージを受け取ってきた。
 だが、最近はとにかく感動ばかりが重視されているように思う。ここで話が飛ぶが、最近僕はエロゲーをしなくなった。あまりにも、「泣ける」ことが重要視されている気がしたからだ。エロくなくても、泣ければいい。感動できれば、エロはむしろ不要。こういった考えのゲームが多いような気がするのだ(もちろん、今でも多くのメーカーが「エロ」を重視したゲームをたくさん出していることは分かっている)。
 ちょっと待ってくれ。それでいいのか?エロゲーがエロくなくても泣ければいい、というのは、何か間違っていないか?

 話を元に戻そう。結局、アニメはエンターテイメントである、と僕は思う。しかし、最近はテーマに引きずられて、そのエンターテイメントという存在そのものが持っている第一義──つまり、面白くあること──を見失っているような気がするのだ。
 感動できる。それは結構。絶対泣ける。それも結構。で、それは面白いのか?「感動」を前面に押し出している作品に向かって、そう問いかけてみたい。
 「HANDMEIDメイ」について聞かれたら、僕は自信を持って「面白かったよ」と言えるだろう。感動した、などという以前に、面白かったのだ。面白くて、最後には見ていて良かったと思える──これこそが、真にあるべきエンターテイメントではないだろうか。

 「感動できる」ことは、今や時代の潮流といってよいだろう。いや、もしかしたら昔はそんなこと口に出さないまでも当然のことで、今になってそれをわざわざ口にするようになっただけなのかもしれない。
 それはともかく。これからは、ただ単に「感動できる」だけでなく、「面白くて、感動できる」ものが求められるのではないだろうか。作り手を目指している僕にとって、そう考えさせられる作品だった。感動のない作品は虚しい。だが、感動だけを売り文句にするのはもうたくさんだ。

(関係ない話)
 ここまで書いていてふと思ったが、「感動できる」という言葉はどこか奇妙だ。感動は「する」ものであり、本人の意思と関わらず「する」か「しない」かであって、「できる」「できない」という表現とは少しずれているような気がする。
 ということで。これからは「よかったと思える」という表現で行くことにしましょう。

(ここから下はネタバレにつき、まだ見ていない人は見ない方が吉です)


 見ていない人は見ない方がいい、と書いていてなんだが、このアニメは週一回のペースで見るのがちょうどいい。
 思い出は、一朝一夕に作られるものではない。毎日毎日、少しずつ繰り返されていく日常の積み重ねが、後から見ると思い出となっているのだ。毎週一話ずつ見ることで、ちょうど思い出が少しずつ増えていくように、僕の頭の中でも各エピソードが蓄積されていった。
 だからこそ、最終回は僕により深い感慨をもたらしたのかもしれない。メイの思い出が消えていく──それは、今まで見てきた各エピソードが、メイの頭の中から消えていくと言うことである。これによって、見ている人間は和也と同じ気持ちを味わうことができたのだ。和也にとっては今まで体験してきたこと、見ている人間にとっては今まで見てきたエピソード、そのすべてがメイから消えてしまう。そして目の前に残ったのは全て初期状態に戻ったメイの姿。
 しかし、メイから記憶は消えても、我々(登場人物、そして視聴者)にはメイとの想い出が残っている。またやり直せばいいだけのことなのだ。そして、未来は開かれている。これからまた、メイといっぱい想い出を作っていけばいいのだ。
 と、ここまで書いてなんだが、視聴者はこれ以上関われないことに気づく。なぜなら、番組が終わっちゃうから。
 う〜。綺麗な終わり方だし、これで終わるのは当然なんだが、やはり続きがみたいよ〜。ってことで続編希望。
 ……まずはCDドラマ買うかあ。