エッセイ 195:阪神大震災10周年 2
阪神大震災の余聞など、幾つか記憶にあることを記したい。
1.私の住む所は、神戸の西で、当日の朝も物凄い揺れの中で、「これで俺の命も終わりか」と思ったことを鮮明に覚えているが、幸いにして家財の破損と大氾濫だけで、家の被害は軽微であった。家の周囲も同様である。薄明るくなってから、車のラジオが唯一の情報源であったが、殆ど役立たずであった。薄明るくなった時の空は、それまで見たことの無い不気味な模様で、これが地震雲というのか、と思ったものである。
2.京都に下宿していて卒業前の息子は、パスポート取得のために、丁度我が家に帰っていた。1月20日過ぎから、カナダのウイスラーに家族でスキー旅行に行く予定であった。電話線は繋がっているようなのだが、中々掛からない。西の宮に住む娘夫婦の生死を確認したと、色々やってみたが、ダメだった。
翌日だったか、娘からやっと電話が入り、お互いの無事を確認して、ワイフと安堵の胸を撫で下ろしたのを覚えている。
3.安心はしてみたものの、水道、ガズ、電気などがすべてが止まり、忽ち生活が大混乱となった。冷蔵庫の者を食い尽くすと、先ず喰うものが無いのである。近所のダイエーまで2キロほど歩いて行くと、もう長蛇の列。諦めかけたが、専門店を覗くと、未だ食料品が結構残っていた。喰えそうなものを片っ端から買い込んで、兎に角糊口を凌いだのである。
4.私の住む所は新興の団地であるが、殆どの家は、瓦が落ちた程度でどうにか大きな破損は免れたのであった。私は東京からの他所者だが、殆どの住人は元々神戸に住人たちである。その親類縁者たちで阪神地区に住む人が多く、そこで震災の被害者になった人達が、震災の直後にどっと押し寄せてきたである。当面の避難場所として丁度よいのだ。
その為、団地の人口が一挙に3倍かそれ以上に膨れ上がってしまったのである。
5.この点は余り報道の対象になっていないが、ライフラインも食料も無いところに、人口が3倍になると、どうなるか。これは、結構大変な現象なのである。
先ず、先立つのが、水である。これがないと、トイレが使えない。近くの小高い公園に散水用の工業用水が出たので、連日バケツを手に長蛇の列ではあるが、これを入手出来たのは大変幸運であった。水を入れる容器が何より必要であった。然し家まで水を運ぶのは可なりの重労働で、バテバテになる。この水を飲料水にも使い、食器を洗い、残りをトイレに使うのである。尾篭な話で恐縮だが、トイレも小では貴重な水を流すわけには行かない。
6.食料の入手は差し迫った問題である。幸い我が家より西方面は比較的に被害が少なかったので、瓦礫を片付けて通れるようになった道路の情報を聞いて、買出しに出掛ける人も見られるようになった。
地震の翌日に漸く繋がった電話で、東京の親戚が食料を始め、必要なものを送って呉れたが、それらは、1ヶ月経っても届かなかった。
7.ガソリンはおろか、灯油も買えないので、当面の寒さしのぎは、大変であった。1週間ほどして電気が復活した時は、やっと我が家に明るさが戻ってきた感がしたものである。
水は相変わらず出ないので、雨の時は、屋根やガレージなどから垂れるすべての水を溜める為に、アチコチに容器を置いて貯水したものである。
8.こうした毎日の生活で、兎に角辛かったのは、水汲みであった。これで、殆どの体力を使い果たす感じで、他にやる気が無くなってしまう。確か8日目であったと思うが、公園の工業用水をポリバケツに入れて、車で何度も運んで、風呂を沸かして入った時、これほど風呂が有り難いものかと認識を新たにしたものである。さっぱりした気分は最高であった。
9.こうした最中に、積極的に協力・援助を惜しまずにしてくれた日本全国の自治体には、今でも感謝の念を忘れない。毎日来てくれる給水車は、山口、横須賀、長野、佐賀など、日本各地のナンバー・プレートを付けていた。その度に涙が出るほど、有り難いと感じた次第である。いずれ、神戸市民も将来の災害時には、これ等の人々に恩返しをしたいと思ったものである。
10.比較的知られていない逸話を2〜3披瀝する。被災地での炊き出しなどの情報を聞いて、西成などのホームレスの人達が、どっと被災地に集まって来たのである。毛布はくれるし、金が無くても、ボロ着でも怪しまれないし、暖かい炊き出しを毎日只で食わして貰える訳だから、彼等にとってこれほど有り難い話は無いのである。
そしてしばらくの間、夜は半壊や人が居ない家で寝ていたのである。
11.三宮の東門筋では、飲み屋街ではバーや飲食店が完全に倒壊して、空家状態であった。ホームレスの人々は、そこにあった普段は決して飲めないような高級ブランデーやウイスキーをたらふく頂戴して、ソファーにひっくり返って寝ていたものである。
 
12.住吉のマンションに住んでいた私の友人は、知人の家に一時非難して、1週間後に荷物を取りに我が家に帰ってみると、其処には5〜6人のホームレスと思しき連中が住み込んでいた由。ドアを開けると、「あんた誰だ?」と逆に聞かれたそうである。
警察官を連れて戻り、やっとの思いで、追い出したが、彼等に使われた布団などは、とても使う気にはなれなかった、と嘆いていた。
13.震災の中心地でありながら、被害が少なかったのは地下鉄と、ガソリン・スタンドであった。特に後者は余り取り上げられていないが、地下のガソリン・タンクの地震対策が万全であった為ではないかと思われる。西明石に近い新幹線の橋脚が完全に落下した脇にあるガソリン・スタンドは、ビクともしていない。
14.これは私の推測であるが、これとは逆に周囲に比べて、極端に破壊がひどく、完全に倒壊した建物が、湊川のスーパー、トポスと、神戸のバンドールであった。何れも全くのペシャンコ状態であった。ダイエーの系列である。多分安普請が災いしたのではないだろうか。これほど見事に破壊されると、取壊し工事が要らず、却って再建には都合が良かったかもしれないが、あれでは震度5位でも危なかったのではないか。
15.被災した電気・ガスに比べて、水道の復旧工事は、予想外に手間取った。その理由は、電気・ガスに就いては、復旧工事や部品の供給など、全国の自治体からの支援を得られた。尤もガスに就いては、ガス漏れの検査が大変で可なりの時間が掛かったが・・・。
水道に関しては、各県の規格が全て異なる為に、他県の配管や部品が全く使えない、という信じられない事態に直面した事実も余り報じられていない。
これは、各県が地元の業者保護の為に、部品の規格、寸法などを微妙に変えているためなのである。
恒久的な地震復興対策の一つとして、水道配管規格の全国的な統一作業を急ぐべきであることを指摘致したい。
16.震災後の瓦礫の撤去とその廃却、焼却作業は、延々と続いたことも忘れられない。全国各地から集積したダンプトラックが、郊外の焼却施設に運搬するである。その施設を先頭に、毎日トラックの行列が10キロ、20キロも、ディーゼルエンジンの煙を吐きながら、渋滞状態のまま続くのである。これが半年も8ヶ月も続くのであるから、復興工事の妨げになるのは勿論、市民生活に有形無形の影響を与え続けたのであった。
以上、思いつくままに当時の状況を述べたが、現在の神戸市と雖も、これ等の事実関係の認識、対策などが十全であるとは、言えないであろう。現在神戸で開かれている「国連防災世界会議」を始めとして、種々の防災対策の検討が行われている。この際、原点に帰って、もう一度10年前の事実認識からスタートしては如何であろうか。
然しながら、震災を教訓として種々の防災対策が講じられるであろうし、それが実行に移されるであろうが、所詮人間がやることである。万全な対策はありえないし、災害は忘れた頃にやってくるのである。世代も変わる頃には、その対策が果たしてどの程度有効であるかは、甚だ心もとないものがある。
私は甚だ悲観的であるが、今回のスマトラ沖地震のように、16万人〜20万人と言われる死者の数が、防災対策によって1万人でも5万人でも減るのであれば、それはそれでやらねばならないことと考える。
最後に、改めて犠牲者の冥福を祈る次第である。合掌。
(平成17年1月20日)
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