夢から目覚める瞬間は決まって、底知れぬ奈落へと垂直に落ちていく感覚がある。
人によっては金縛りだというかもしれない。意識は覚醒へと浮遊しているのに、身体だけが重く沈みこんでいく不快感。
それを振り払うのも一瞬のことだ。
悪夢に魘されて飛び起きる時間はとうに過ぎた。あるいはそれをやり過ごすだけの自制はこの十年でついた。
それでも繰り返し夢は見る。時の流れに従って記憶や感覚は過去の残像となり、生々しい実感が薄れて色褪せた思い出となりつつも、最後の肌が粟立つような気配だけは何時まで経っても拭えない。
夢は夢だと思い知らされる、無情な現実に引き戻される、得も知れぬ喪失感。
舌先に残る苦味を誤魔化すように煙草を咥え、火をつけて深く吸い込む。より確かな辛口の舌触りが夢の後味を掻き消してくれる。
「少佐っていつも同じ煙草吸ってますね。何かこだわりでもあるんですか?」
最近では任務中でも喫煙を欠かさないローウィンに慣れたのか(あるいは諦めたのか)、副官になったカシスがそう訊いてくる。
まだ少年っぽさが残った顔立ちを横目で見返した。士官学校卒業したてだからまだ18歳か。あの頃の自分と同じ齢なんだな、と何気なく考える。
「まあ…あるといやあるかな。別にこれでないと駄目だってわけじゃないんだが」
口の端に咥えたまま、億劫げに応じる。それから手元の煙草へと目を落とした。黒いパッケージにゴシック体でBLOCHと白いロゴが描かれているだけのシンプルなものだ。
無数にある銘柄の中からこれを選んだのは、死んだ旧友と同じ名だったから。それだけの理由で、味や匂いも気に入ったからずっと吸い続けている。
「駄目っぽく見えますよ。気づいたらいつも吸ってるじゃないですか。今みたいな寝起きでも、訓練中でも。立派な中毒ですよ」
「吸っちまうのは単なる癖だよ。中毒ってのはな、それがないともがき苦しむほど依存しちまうことだ。アル中だとかヤク中だとか言うだろ。俺はなかったらないで平気だし、口が寂しい時は代用品でも別にいいんだよ。チュッパチャップスとか」
「どう違うんですか。ていうか少佐がチュッパチャップス食べるんですか?」
「だからあったらだよ。昔、俺の弟分がよく食ってたからたまに貰ってただけだ。要するに煙草でも飴でも俺にとっては一緒だってことだ。何もなけりゃ」
そこで言葉を切った。灰が落ちていく煙草を見据えながら、もしこれがなければ夢の残り香をどうやって解消していたのだろうと思う。
「何もなかったら?」
「…時間が経つままに任せるさ。どうせその程度のことなんだ」
二度と取り戻せない喪失感など。癒えることのない魂の痛みなど。ローウィンが生きる限り、死んだ仲間たちとは止まることなくかけ離れていく。夢を見て肌が粟立つのは、一瞬でも距離が縮まったと錯覚しているだけだ。
カシスはまだ納得いかなげな顔つきで見てきたが。
タイミングを見計らったように戻ってきたアマキに、慌てて姿勢を正して報告書を提出しにいく。正式な軍服に袖を通しても、まだその動作は学生っぽさを感じさせる。
一本吸い終えると、寝起きの気だるさは完全に拭えた。ようやく頭に冷たい芯が通ったような気持ちになる。
カシスほどの年の頃には、安易に麻薬や酒に逃げていた。自制を失うほど溺れることで、あるいは人肌に縋りついて温もりを貪ることで、自分の中から薄れていった人間としての感情や感覚を取り戻そうと足掻いていた。
地獄絵図を忘れる為に。それでもまた凄惨な戦場に戻ると分かっているのに。
(退屈を楽しめ、か。あんたの言いたいことがやっと分かってきた気がするよ。ブロック)
新たな煙草を咥えながら、銘柄のロゴに視線を落とし、心中では先に本当の地獄に落ちた旧友へと話しかける。
血と硝煙の残滓がする苦味は消えない。恐らく一生消えずに死神のように彼についてまわるだろう。それを忘れることなく、引きずってでも連れていこうと決めたのは何時の時からだったか。
生憎ライターはガス欠だったらしい。幾度か虚しく火花を散らし、ため息をついて諦める。
と、横手から代わりのライターが差し出された。カシスではないその手に、ふと既視感に襲われる。
まるで時間が十年逆流したような。
「大佐も煙草吸われましたっけ」
「いや。滅多に吸わないが、貰い物だからな。それに持ち歩いていると何かと便利だ」
カシスに応じるアマキの声を聞きながら、改めて見たそれは昔見たものよりも十倍は金がかかっていそうな立派なジッポーライターだった。
「まだやらかす必要があるんですか」
口を挟んだローウィンに、何かと暗い蒼の瞳が見返してくる。
「不意打ちで襲い掛かってきた敵の目を灼くんでしょ。そいつで」
同じ戦場で誰よりも多く人を殺してきた上官が、事もなげに告げた台詞が今も耳に残っている。
その時の表情も、声音も。不思議なくらい鮮明な記憶として思い出された。
アマキはやはりあっさりと告げただけだったが。
「今はスカーレットに貸すことが多い。ビューラーを炙るのにちょうどいいんだとか」
背後でカシスが何か物言いたげな表情をするのを見ながら、ローウィンは深く吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出し。
それからくっと喉を震わせるようにして笑っていた。
「…平和ですねェ」
心底可笑しさを覚えてそうつぶやく。
完全に覚醒した脳裏には、すでに夢の残滓は引きずっていない。いつもの退屈で変わり映えのない日常が始まる。軽く握り潰した煙草の箱を上着のポケットに押し込めば、色褪せた旧友の笑い声も記憶の底に沈殿する。
そして全てが払拭された後で、一度はこの手で殺したと思った人間だけが、亡霊よりも確かな現実としてそこに立っていた。
「ならその平和に精々貢献しろ。生き残った者の証としてな」