
たった一夜の約束でいいの。
永遠の鳥籠で歌い続ける為に。
どろりと澱んだ空気がまとわりついた。 物理的な悪臭ではない。 空気清浄機は一日中休みなく活発に動き続け、顔が映りそうなほど磨きぬかれた床には塵一つ落ちていない。 室内には薔薇を思わせる仄かに甘い香が焚きしめられている。 い ろ それでもこの世界の色彩は腐った汚物のように濁っている。 美しく華やかな幻想の下に、悍ましくも憐れな現実が腐臭を放つように。 「連れておいで」 眼前に座った【荊城】の女主人が傲岸不遜を絵に描いたような声で下僕に命じる。 見た目は幼い。子供といってもいい。 だが子供はこんな貌をしない。 猫のように吊り上がった大きな瞳にぎらぎらと輝く狡猾な知性。 もしこの世にバケモノと呼ぶに相応しい生き物がいるならば、それは女主人の足元で侍らされている異形のキメラよりも、主人の方がよほど。 やがて下僕が戻ってきた。 岩のような両腕に、硝子細工で出来たビスクドールのような少女を抱いて。 少女。あるいは女。どちらともつかない、曖昧な顔立ち。 大人びているようで。妖艶なようで。赤子の無垢さ。白痴とも取れる。 ただ一つだけ共通点を持つとすれば、それは彼女がとても美しいといえること。 この退廃した都市では決して見ることのない、海の色のような紺碧の髪と瞳。 「お望みの【人魚姫】だ」 老女のような声で子供の顔が告げる。 彼は立ち上がった。 人魚姫は下僕に抱かれたまま。 黒い絹のドレスから覗くほっそりとした白い足は綺麗に重なり合っている。 最初からそうであったように。人が在るがままの自然体系のように。 彼女の足は、一本しかない。 「初めまして。美しい人」 柔らかく微笑んで彼女の髪と同じ色をした薔薇を一輪差し出すと、人形のように伏せられていた長い睫がゆっくりと上がった。 それは意外なほど、ぱっちりと。 彼女は大きく瞳を開けた。にこりと笑う。 赤子のような無垢さも得も知れぬ妖艶さも消え失せ、生来の人格が瞬く間に姿を見せる。 ピンク色の唇をぱくぱくと動かして何かを言おうとした。 しかし声は出ない。 遮るように女主人が言い放つ。 「そいつは歌う時以外は喋れない」 「声を聞きたい」 彼はそれ以上の駆け引きが交わされる前にテーブルの上に革袋を落とす。 ずしりと重い響き。音は鳴らなくとも振動だけで伝わる。 女主人がにやりと笑って、下僕を手招きする。 まるで御伽噺に出てくるフランケンシュタインのような醜い大男は人魚姫を抱いたまま膝をつき、主人の視線に合わせる。 ある種の美しさを誇るのにどこか下僕以上に怪物めいた容貌の女主人は、手を伸ばして人魚姫の首に巻かれていたレースのチョーカーを外した。 ごとりと鈍い音。 黒いレースから零れたのは鋼鉄の首枷。 表面にいびつな突起が並び、それが声帯を圧迫していたことを悟る。 見返した人魚姫の露となった白い首筋には痛々しい痣が無数に残されていた。 拷問具から解放された喜びか、人魚姫が大きく息をつく。 「名前は人魚姫。愛称が知りたければ本人から聞け。歌う以外に能はない。興に入れるように海の部屋を用意した。一夜存分に愉しむがいい」 首輪とチョーカーを片手に女主人は合図を送った。 海の部屋。 確かに深海を模したような不思議な部屋だった。 入ってきた扉以外に窓はなく、壁や床、天井の全てが青く塗り潰されている。 水晶で出来た珊瑚礁の模型が床を埋め、顔を上げると天井は水面のようにゆらゆらと揺らめいていた。 時折視界の端をよぎる無数の光陰は幻影の魚なのか。 「あ、あぁ……あ、の…ああ」 口を大きく開けたまま、床に下ろされた人魚姫が立ち尽くす彼のズボンにしがみついてくる。 視線を合わせるようにしゃがみこみ、その差し伸べられた両手を優しく取った。 「どうしたの?」 「あ、ああ…あの…ああぁの…あの、ね…」 長らく声帯が潰されていた所為か、声が上手く出せないのだろう。 硝子細工の見た目とは裏腹に、老婆のようにしわがれた掠れ声。 稀代の歌姫だと言われても誰も信じられないだろう。こんな悪声でどのような人を魅了する歌声が出せるのだと。 しかし人魚姫はそれを羞恥と捉えている様子はなかった。 何度もつっかえながら、それでも必死になって声を絞り出そうとする。 噎せ返って呻くその背中を彼は軽く叩いてやった。 「無理に喋らなくてもいいよ」 いたわるように告げると、人魚姫は首を横に大きく振った。 違う違うと言わんばかりに。ああこの娘は喋りたいのだと理解する。 黙っていれば御伽噺の通りに泡となって消えてしまいそうなほど儚げな風情なのに、見上げてくる大きな紺碧の瞳にはきらきらとした生気が宿っている。 「あの、あああの、ね…あのね、さっきの薔薇…あり、ありが…とう」 それだけを一気に言い切ってしまい、呼吸が尽きたのか言葉を切ってぜいぜいと肩で息をする。 整うまで支えたまま待っていると、やがて顔を上げてきた。 「…わたし、メーア。みんな、人魚姫って呼ぶの。でも、メーア。メーアって呼ばれる方が、好き、なの」 「メーア」 彼が呼ぶと、さらに嬉しそうな顔になって何度もうなずく。 最初から興奮している彼女を落ち着かせる為に、彼はその細い身体を抱き上げて大きな貝殻を模した寝台まで連れていった。 クッションを背もたれに座らせると、すぐさま腕を通してしがみついてきた。 少しでも離れるのは嫌だと言わんばかりの、子供じみた仕草。 どちらかといえば艶かしい色香が滲む美貌なのに、その幼いギャップに酔いしれる男も多いだろう。 「私は何処にもいかないよ」 そう告げて頭を撫でてやると、また嬉しそうににこっと笑った。 「お礼」 ふと思いついたように爪先までブルーに染まった指を口元に当て、メーアは見上げてくる。 「お礼したいの。薔薇をくれたから。何がいい?」 長い睫も瞳と同じ青。どこまでも深い。白い肌の人魚姫。 「あなたの望むこと、何でもしてあげる」 ようやく喉が通るようになったのか、言葉も滑らかになる。 掠れていた声が元の声質を取り戻し、じわりと甘い蜜をはらませる。 しかし見つめてくる瞳は純粋無垢のまま。 お手上げとばかりに彼は両手を開き、それから身を乗り出してくるメーアの肩をそっと抱いた。 「メーア。そんなことを軽はずみに言ってはいけない」 「どうして?」 「悪い男に騙されてしまうよ」 保護欲を掻きたてると同時に醜い獣性を刺激するようなアンバランスな魅力。 ともすれば汚れなき白い肌に爪をたて、紅い筋を残してやりたいと思わせるような。 それでも嫌がらないと分かる無意識の媚態。 「悪い人なんていないもの」 疑うこと自体知らないような、愚かなまでの無知な微笑。 「だけどこれまで怖い思いをしたことは?」 問いかけを変えるとこれは引っかかったのか、口元から笑みが消えた。 白い手が喉を押さえる。隙間から零れる銀の光。 首輪のさらに下に揺れていた銀の薔薇は彼女が所有物だという証。 ここは荊の城。囚われているのは人魚姫。白馬の王子様はやってこない。全て不眠症の魔女が食べてしまうから。 あやし 「妖荊は?」 「…時々、怖い…けど」 指で隠された痛々しい赤黒い痣に、彼は癒すように唇を当てる。 「でも…妖荊、淋しい…。とても淋しがり屋…抱きしめてあげると喜ぶの」 「それは見てみたいような見てみたくないような」 到底見た目通りの年齢とは思えない女主人は、しかしやはり見た目通りの年齢でしかないのかもしれないと思った。 この世界ではそんなことも当たり前。 10歳の少女?それが何の免罪符になるというのだ。 「それに、好きな人たくさんいるの。ここに来る人、いっぱい好き。友達もいるわ」 「それは良かった」 元通りの無邪気な笑顔につられるようにして彼も笑う。 愛らしい。痛めつけたい。慈しみたい。泣かせてみたい。話す声を聞きたい。もっともっともっと。際限なく連鎖する欲望を抱かせるような少女。 「あなたも好き」 両手を伸ばして彼の首を掻き抱く。 動かない脚。まるで陸に上がった人魚姫。 王子様に出会えることもなく、残酷な女の子に鎖で繋がれ、地上の世界に囚われて。 それでも泣くことよりも笑うことを選ぶメーア。 悲しいことよりも楽しいことを見つけようとする、案外誰よりも図太いかもしれない御伽噺のお姫様。 「じゃあメーア。私の為に歌ってくれるかな」 享楽のドブに金貨を投げ込んだのは全てそれだけの為。 たった一夜の夢物語。 その為だけに生きる廃墟都市リヴィ=ヴェレの歌姫。 非情な魔女に飼われて永遠の荊の鳥籠で何時か息絶える日まで。 だけどメーアは嬉しそうに笑う。誰よりも幸せそうに歌を歌う。 飽きることなく喋り続け、笑い続け、その声が命の全てだと言わんばかりに。 神秘的な歌姫はまるで酒場の女将のようにまかせてと勢いよく胸を叩き、それから大きく息を吸った。 次に吐くまでのわずかな刹那。 深い紺碧の双眸に、無音の息吹が吹き込まれる。 無限の虚空を統べるような、その羽ばたきが世界に翼を広げた。 蒼穹と紺碧が水平線の彼方で溶けて消えていく。 世界は青一色へと染め上げられていく。 その美しい光景を何時までも何時までも見つめている気がした。 遠いあの日、手を繋いでいた君と共に。 だけど夢は何時か醒める。 本当の永遠なんて何処にもない。 眩い金貨の幻想は色褪せた朝日と共に泡沫に消えていく。 メーアは淋しそうだった。 きっとどんなに酷い扱いを受けても、それでも帰っていく客たちをそんな目で見送るのだろう。 傷ついても甚振られても翌朝には純真無垢な天使に生まれ変わる。 何度でも何度でも。終わらない輪廻を一途な魂だけが巡るように。 「また来るよ」 必ずそう約束して誰もが去っていくのだろうと思いつつも、何百人何千人目かは知らないが彼もまたお決まりの別れの言葉を告げる。 するとお約束のようにメーアはにこっと笑った。 「メーア」 本当はそこで綺麗に幕を下ろすつもりだったけれど、不意に彼は引き寄せられるものを感じて、その頬にそっと触れた。 「本当は君は好きな人がいるんじゃないのかい?」 ちりん。 指が触れた拍子に鳴った、左耳の銀のピアス。 繊細で華奢な彼女にはどことなく不似合いな、無骨な鎖と十字架が静かに揺れている。 銀の装飾品は彼女が妖荊の所有物だという証。 喉の薔薇以外は決してつけさせないのだと聞いた。 だから、これは。 メーアの顔から一瞬だけ無垢な笑顔が消えた。 本当は。 モノ 「…わたし、妖荊の【姫】だから。この鳥籠からは出ていけないの」 伏せられた睫。薄く唇を彩る微笑。 そこにいたのはあどけなくて妖艶で無邪気で男の欲望を煽る神秘的で謎めいた人魚姫ではなく。 「でもね、いいの。これでいいの。わたしが歌うと妖荊は喜んでくれるし、それがわたしも嬉しいの。それにね…」 そっとメーアは触れてくる掌に自分のそれを重ねた。 内緒話をするように、ひそひそと囁く。 ----------あの人は時々逢いにきてくれるから。それで充分幸せなの。 そう言って少し照れたように笑ったメーアは、どこにでもいるようなごく普通の女に見えた。 「メーア」 不機嫌な声と共にまた声帯を圧迫する鋼鉄の首枷とレースのチョーカーをつけられる。 ぐっと喉が絞まる。窒息するような緩慢な苦痛。 だけど彼女は我慢する。次の誰かが解き放ってくれる日まで。 たとえそれが一夜の儚い幻想でしかないのだとしても。 「ねえ、微笑ってくれるかな?」 一つの願いと共に差し出された一輪の薔薇に、掌が重なり合う刹那の温もりに。 わたしは【あなた】の為に歌い続けよう。 永遠の鳥籠の中、何時か息絶える日まで。 それが【人魚姫】。 貴子さんから頂いたイラストからイメージが浮かんだ話。 |