「おいでベイビー。今日だけはあんたのママになってあげる」
舌ったらずな甘い声。
体臭を誤魔化す刺激的な香水。
深いスリットの入ったサテンドレスの裾をたくし上げ、サルドニカは手招きしてみせる。
誘い文句はいつも同じ。
男はいくつになっても母親を恋しがる。
「あんただけは特別だよ。ママの中に入っておいで」
狭くて薄暗い室内で、ぎしぎしとベッドが鳴る音。
獣のような荒い息遣いはどこか啜り泣きにも似て。
セックスで人は死んでまた生まれ変わるのだとサルドニカは思っている。
縊られるように殺されて、また無垢な幸福の中で目覚める。
その刹那だけ自分が堕ちるだけ堕ちた売女ではなく、教会の連中がこぞって讃え上げるような聖母になった気になれるのだ。
絶頂を迎えた断末魔の産声の後、腕の中にある男の頭を抱きしめる。
会ったばかりの名も知らぬ他人が最も愛おしいと感じる瞬間。
「ハニー」
口紅の剥げた唇で、泡沫の一夜の愛を囁く。
「ハニー、好きよ。愛してるわ」
俺もだよ、と戯れに返してくれる男もいる。
そうでなくとも汗ばんだ体温を感じているだけでつかの間の安らぎが得られる。
若き頃に喪失なった全てがこの腕に戻ってくるような、哀しい錯覚の夢に縋るように。
雨天は雨宿りも兼ねて飛び込んでくる客もいるので、たいがい賑わっているものだが、今日に限っては閑古鳥が鳴いていた。
カライスは暇潰しに飴玉を噛んで一人チェスをしていた。
床に敷かれた絨毯の上ではカルブンクスルとグラナティスのグラーナートゥム姉妹が寝転がってうとうとと午睡を微睡んでいる。
サルドニカはカウンターの椅子に腰掛け、安物の葉っぱを吸っている。
誰も話しかけないし、時計を見ようともしない。
退屈な午後。
「世界滅亡を起こしそうな光景だね」
雨の中、買出しから戻ってきたイズゥムルートが心底呆れ返った口調で独りごちた。
「何が世界滅亡?」
「リヴィ=ヴェレの歓楽街に名だたるエーデルシュタインが民家の居間と化してる現状がだよ。セリノリソス」
背後にいた背の高い青年の問いに応じてみせる。
「サルドニカ、今日はどうしたの。やる気がでないの?」
「あたしだって毎日毎夜発情してる雌猫じゃないんだよ。イズ坊や」
ぎろりと厚ぼったい半眼で睨まれ、イズゥムルートは首を竦めてみせた。
その前にウオッカの瓶を置く。
「まぁクイーン、今晩は酒でも飲んで気を晴らしませんか。ウイスキーもあるよ」
「ラムは?」
「ジンは?」
即座に反応した床上姉妹が起き上がり、カウンターに集中する。
カライスは下戸なので見向きもしない。
「どっちもあるよ」
「まぁカル、ジンなんて薬臭いド田舎の農場産のお酒の何が美味しいの?」
「グラこそラムなんて胸糞悪くなるくらい甘ったるい野蛮な海賊安酒の何がいいのか分からないわ」
お互いの瓶を抱きしめて、双子の姉妹は睨みあっている。
顔と性格の割には趣味嗜好はあまり似ていない。
「どっちも土地柄が出てて美味しいと僕は思うよ。カクテルを作ってほしい人はセリノリソスに言いなさい」
イズゥムルートの声に姉妹は我に返り、慌ててカウンターの中に入っていったバーテンダーに頼み始めた。
サルドニカは直接グラスにウオッカを注いで飲み干している。氷すら入れていない。
「サルドニカ、あんたは長生きしないね」
「五月蝿いよ。オッキオ・ディ・ガット」
背後からからかうように声をかけた男に、サルドニカは憮然とした返事を返す。
この娼館に不似合いなくたびれた格好をした男は剽軽な仕草で肩をすくめてみせた。
「おお怖い。クイーン・オブ・ハートはご機嫌斜めのようだ。雨で男日照りの所為かね。それとも真紅の女王ルゥヴィーンが戻ってくるからかね」
芝居がかったわざとらしい台詞に、罠だと知りつつもサルドニカは振り向かずにはいられなかった。
「ルゥヴィーンが?」
「そう、聖都サルヴァツィオーネより性愛の女神のご帰還さ。予定より一月ほどはやいけどね。今頃豪華飛行船で優雅な空旅か貴族列車でパーティの最中か」
「ふん。相変わらず派手な女だ」
吐き捨ててサルドニカはウオッカの瓶を引っくり返す。
「女は外見よりも中身(ハート)が肝心。それがあんたの持論だったね、サルドニカ」
「それがどうした」
「だからわざとそんなみすぼらしい格好をしてるのかと思っただけさ」
煽るような口調にサルドニカの険がさらにきつくなる。
すでに娼婦としては熟年の域に入っているだろうが、それでもぬけるような白い肌と張りのある肉体はまだまだ十代の女に負けていない。
元の顔立ちで勝負すれば充分、真紅の女王と肩を並べられる美女のはずだ。
しかし安っぽく着崩れたスリップドレス、くしゃくしゃに絡まった紅の髪、アイラインとルージュだけが目を引くように濃く入った化粧と、場末の酒場のコールガールのような風袋である。
それでもこのエーデルシュタインに君臨する高級娼婦なのだが。
「あたしはあたしの肉体一つで勝負してるんだ。男からの貢ぎ物も金も要らない。悪いか」
「それならせめて髪くらい梳かした方がいい。元はストレートなんだろ?」
今ではすっかり小鳥の巣だが。
返答は刺激臭のある液体だった。
頭から爪先までウオッカの洗礼を浴びたオッキオは、肩を怒らせて去っていく女の後ろ姿にもう一度肩をすくめてみせる。
「おっかない聖母マリアだ」
「そうよ。サルドニカはわたしたちのマーマ」
「母乳の代わりに蜂蜜を混ぜたブランデーを飲ませて、子守唄の代わりに喘ぎ声で育ててくれたエーデルシュタインの立派なマーマ」
途端に左右から顔を出したグラーナートゥム姉妹がくすくすと笑う。
「じゃあ君たちは神の御子のシスターか?」
戯けるようにオッキオは返し、それから首筋に冷たいものがつたうのを感じた。
「そうだよ。僕たちはサタン・エルだ」
何時の間に近づいたのか、背後に立っていたイズゥムルートがびしょ濡れの肩にタオルをかけてやりながら微笑む。
「虚無の父より生まれ、母の血の産道から出てきた焔の蛇。証拠に頭が七つ揃ってるだろう?」
天使のように美しい貌は、堕天使の仮面なのだとオッキオも知っている。
誘い文句はいつも同じ。
瞳の色のような真朱のマニキュアは仕事の合図。
白い蛇のような腕で男を抱きしめ、泡沫の愛を囁く。
つかの間溺れるのは快楽か過去の残想か。
サルドニカは男の上に跨り、泣くように喘ぐ。
(ああ神様。懺悔をさせて)
そそり立ったものを受け入れながら、真紅に染まった指先がシーツの中を弄る。
(神様、神様、神様、神様、神様、神様)
サルバシオン。
サルヴァツィオーネ
教会の救済の祈祷を痛烈に皮肉るような、彼女たちのもう一つの名称。
彷徨った右手が救いの十字架を握る。
喘ぐように泣きながら、サルドニカはルージュの剥げた唇を吊り上げて笑う。
愛した男の額に銃口を突きつけて。
「…さあ、ベイビー。ママのところへ帰っておいで」
パン。
光に千切れていった過去に、救済の導きはただただ赫い------------。
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